・・・ 松任にて、いずれも売競うなかに、何某というあんころ、隣国他郷にもその名聞ゆ。ひとりその店にて製する餡、乾かず、湿らず、土用の中にても久しきに堪えて、その質を変えず、格別の風味なり。其家のなにがし、遠き昔なりけん、村隣りに尋ぬるものあり・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・そのかわり、遠国他郷のおじさんに、売りものを新聞づつみ、紙づつみにしようともしないんだぜ。豈それ見惚れたりと言わざるを得んやだ、親仁。」「おっしゃい。」 と銚子のかわりをたしなめるような口振で、「旅の人だか何だか、草鞋も穿かない・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・二十年他郷に住んだ予には、今は村のだれかれ知った顔も少ない。かくて紅黄の美しいりぼんは村中を横ぎった。 お光さんの夫なる人は聞いたよりも好人物で、予ら親子の浜ずまいは真に愉快である。海気をふくんで何となし肌当たりのよい風がおのずと気分を・・・ 伊藤左千夫 「紅黄録」
・・・譬えば移住民が船に乗って故郷の港を出る時、急に他郷がこわくなって、これから知らぬ新しい境へ引き摩られて行くよりは、むしろこの海の沈黙の中へ身を投げようかと思うようなものである。 そこで女房は死のうと決心して、起ち上がって元気好く、項を反・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・そして、他郷に見られない、自からの扶助が行われている筈である。かゝる村落自治こそ、思い出しても、なつかしいものであったにちがいない。 流浪漂泊の詩人が、郷土に対して、愛着を感じたのは、たゞ自然ばかりでなく、また人間に於てゞもある。真実を・・・ 小川未明 「彼等流浪す」
・・・あれはどんなに酔払っても俺にもそんな話はしないが、俺はこのごろになってようよう、彼がああして家を出て他郷で商売をする気になった心持が解ったよ。彼は老父たちにさえそうした疑念を抱かせないような具合にして、いつの間にかするりと家を脱けていたんだ・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・ かれは思った、他郷に出て失敗したのはあながちかれの罪ばかりでない、実にまた他郷の人の薄情きにもよるのである、さればもしこのような親切な故郷の人々の間にいて、事を企てなば、必ず多少の成功はあるべく、以前のような形なしの失敗はあるまいと。・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・だから愍然だと思ってくれる人だって有りゃあしない。だから他郷へ出て苦労をするにしても、それそれの道順を踏まなければ、ただあっちこっちでこづき廻されて無駄に苦しい思をするばかり、そのうちにあ碌で無い智慧の方が付きがちのものだから、まあまあ無暗・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・この人が十年も他郷で流浪した揚句に、遠く自分の生れた家の方を指して、年をとってから帰って来たおげんの旦那だ。弟は養子の前にも旦那を連れて御辞儀に行き、おげんの前へも御辞儀に来た。その頃は伜はもうこの世に居なかった。到頭旦那も伜の死目に逢わず・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・譬えば移住民が船に乗って故郷の港を出る時、急に他郷がこわくなって、これから知らぬ新しい境へ引き摩られて行くよりは、寧ろ此海の沈黙の中へ身を投げようかと思うようなものである。 そこで女房は死のうと決心して、起ち上がって元気好く、項を反せて・・・ 太宰治 「女の決闘」
出典:青空文庫