・・・しかしチェルシーは以前のごとく存在している。否彼の多年住み古した家屋敷さえ今なお儼然と保存せられてある。千七百八年チェイン・ロウが出来てより以来幾多の主人を迎え幾多の主人を送ったかは知らぬがとにかく今日まで昔のままで残っている。カーライルの・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
これは楽友館の給仕が話したのを誰かが書いたものらしい、而もそれは大分以前のことであろう。 初夏の或晩、楽友館の広間に、皓々と電燈がかがやいて、多くの人々が集った。この頃よくある停年教授の慰労会が催されるの・・・ 西田幾多郎 「或教授の退職の辞」
・・・生田長江氏がその全訳を出す以前にも、既に高山樗牛、登張竹風等の諸氏によつて、早く既に明治時代からニイチェが紹介されて居た。その上にもニイチェの名は、一時日本文壇の流行児でさへもあつた。丁度大正時代の文壇で、一時トルストイやタゴールが流行児で・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・一足室の中に踏み込むと、同時に、悪臭と、暑い重たい空気とが以前通りに立ちこめていた。 どう云う訳だか分らないが、今度は此部屋の様子が全で変ってるであろうと、私は一人で固く決め込んでいたのだが、私の感じは当っていなかった。 何もかも元・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・嬉しい中に危ぶまれるような気がして、虚情か実情か虚実の界に迷いながら吉里の顔を見ると、どう見ても以前の吉里に見えぬ。眼の中に実情が見えるようで、どうしても虚情とは思われぬ。小遣いにせよと言われたその紙入れを握ッている自分の手は、虚情でない証・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・主人は以前の婢僕を誉め、婢僕は先の旦那を慕う。ただに主僕の間のみならず、後妻をめとりて先妻を想うの例もあり。親愛尽きはてたる夫婦の間も、遠ざかればまた相想うの情を起すにいたるものならん。されば今、店子と家主と、区長と小前と、その間にさまざま・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・尤も『浮雲』以前にも翻訳などはある。今もいったツルゲーネフの『ファーザース・エンド・チルドレン』の冒頭を、少々ばかり訳したことなどもあるが、坪内さんに見せたばかりで物にはならなかった。『浮雲』にはモデルがあったかというのか? それは無いじゃ・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・一事一物を画き添えざるも絵となるべき点において、蕪村の句は蕪村以前の句よりもさらに客観的なり。人事的美 天然は簡単なり。人事は複雑なり。天然は沈黙し人事は活動す。簡単なるものにつきて美を求むるは易く、複雑なるものは難し。沈黙・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・ 日本で報告文学が、小説以前の現実状況の報告文学としての意味で、作家と読者との一般的関心の前におかれたのは、今日から数年前、プロレタリア文学のもつ社会性の本質からであった。これまで文学の仕事というものは、今日にあっても室生氏が未だ業なら・・・ 宮本百合子 「明日の言葉」
・・・弥一右衛門は以前から人に用事のほかの話をしかけられたことは少かったが、五月七日からこっちは、御殿の詰所に出ていてみても、一層寂しい。それに相役が自分の顔を見ぬようにして見るのがわかる。そっと横から見たり、背後から見たりするのがわかる。不快で・・・ 森鴎外 「阿部一族」
出典:青空文庫