・・・そこで敵打の一行はすぐに伊予船の便を求めて、寛文七年の夏の最中、恙なく松山の城下へはいった。 松山に渡った一行は、毎日編笠を深くして、敵の行方を探して歩いた。しかし兵衛も用心が厳しいと見えて、容易に在処を露さなかった。一度左近が兵衛らし・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・中でも早吸の瀬戸などは神武天皇が東征の時に御通りになったというので、歴史で名高くその名も潮流の早い事を示していて大変に面白い名でありますが、今ではただ豊後海峡と呼ばれています。伊予の西の端に指のように突き出た佐田岬半島と豊後の佐賀の関半島と・・・ 寺田寅彦 「瀬戸内海の潮と潮流」
・・・それ故大正改元のころには、山谷の八百善、吉原の兼子、下谷の伊予紋、星ヶ岡の茶寮などいう会席茶屋では食後に果物を出すようなことはなかったが、いつともなく古式を棄てるようになった。 わたくしの若い時分、明治三十年頃にはわれわれはまだ林檎もバ・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・傘は一本さすのも二本さすのも、濡れることは同じだからと言って、相合傘の竹の柄元を二人で握りながら、人家の軒下をつたわり、つたわって、やがて彼方に伊予橋、此方に大橋を見渡すあたりまで来た時である。娘は突然つまずいて、膝をついたなり、わたくしが・・・ 永井荷風 「雪の日」
・・・余が博士を辞退した手紙が同じく新聞紙上で発表されたときもまた余は故旧新知もしくは未知の或ものからわざわざ賛成同情の意義に富んだ書状を幾通も受取った。伊予にいる一旧友は余が学位を授与されたという通信を読んで賀状を書こうと思っていた所に、辞退の・・・ 夏目漱石 「博士問題とマードック先生と余」
・・・ 学校を出てから、伊予の松山の中学の教師にしばらく行った。あの『坊っちゃん』にあるぞなもしの訛を使う中学の生徒は、ここの連中だ。僕は『坊っちゃん』みたようなことはやりはしなかったよ。しかしあの中にかいた温泉なんかはあったし、赤手拭をさげ・・・ 夏目漱石 「僕の昔」
・・・それは伊予の松山にある中学校です。あなたがたは松山の中学と聞いてお笑いになるが、おおかた私の書いた「坊ちゃん」でもご覧になったのでしょう。「坊ちゃん」の中に赤シャツという渾名をもっている人があるが、あれはいったい誰の事だと私はその時分よく訊・・・ 夏目漱石 「私の個人主義」
・・・ 伊予国の銅山は諸国の悪者の集まる所だと聞いて、一行は銅山を二日捜した。それから西条に二日、小春、今治に二日いて、松山から道後の温泉に出た。ここへ来るまでに、暑を侵して旅行をした宇平は留飲疝通に悩み、文吉も下痢して、食事が進まぬので、湯・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・ 民間説話に題材を取ったらしい物語のなかで、最も目につくのは、伊予の三島明神の縁起物語『みしま』である。この明神はもと三島の郡の長者であった。四万の倉、五万人の侍、三千人の女房を持って、栄華をきわめていたが、不幸にして子がなかった。で、・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
出典:青空文庫