・・・ 姉娘に養子が出来て、養子の魂を見取ってからは、いきぬきに、時々伊豆の湯治に出掛けた。――この温泉旅館の井菊屋と云うのが定宿を開けたのは、頭も、顔も、そのままの小一按摩の怨念であった。「あれえ。」 声は死んで、夫人は倒れた。・・・ 泉鏡花 「怨霊借用」
・・・ 碧水金砂、昼の趣とは違って、霊山ヶ崎の突端と小坪の浜でおしまわした遠浅は、暗黒の色を帯び、伊豆の七島も見ゆるという蒼海原は、ささ濁に濁って、果なくおっかぶさったように堆い水面は、おなじ色に空に連って居る。浪打際は綿をば束ねたような白い・・・ 泉鏡花 「星あかり」
・・・遠景一帯、伊豆の連山。画家 (一人、丘の上なる崕に咲ける山吹と、畠の菜の花の間高き処に、静にポケット・ウイスキーを傾けつつあり。――鶯遠く音を入る。二三度鶏の声。遠音に河鹿鳴く。しばらくして、立ちて、いささかものに驚ける状す。なお窺・・・ 泉鏡花 「山吹」
・・・屋は昔の宿場の本陣そのままの姿を残し、堀辰雄氏、室生犀星氏、佐藤春夫氏その他多くの作家が好んでこの油屋へ泊りに来て、ことに堀辰雄氏などは一年中の大半をここの大名部屋か小姓の部屋かですごしていたくらい、伊豆湯ヶ島の湯本館と同様、作家たちに好か・・・ 織田作之助 「秋の暈」
一 秋の初の空は一片の雲もなく晴て、佳い景色である。青年二人は日光の直射を松の大木の蔭によけて、山芝の上に寝転んで、一人は遠く相模灘を眺め、一人は読書している。場所は伊豆と相模の国境にある某温泉である。 渓流の音が遠く聞ゆる・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
北風を背になし、枯草白き砂山の崕に腰かけ、足なげいだして、伊豆連山のかなたに沈む夕日の薄き光を見送りつ、沖より帰る父の舟遅しとまつ逗子あたりの童の心、その淋しさ、うら悲しさは如何あるべき。 御最後川の岸辺に茂る葦の枯れ・・・ 国木田独歩 「たき火」
・・・そこで弘長元年五月十二日幕吏は突如として、彼の説法中を小町の街頭で捕えて、由比ヶ浜から船に乗せて伊豆の伊東に流した。これが彼の第二の法難であった。 この配流は日蓮の信仰を内面的に強靭にした。彼はあわただしい法戦の間に、昼夜唱題し得る閑暇・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・ 伊豆や相模の歓楽郷兼保養地に遊ぶほどの余裕のある身分ではないから、房総海岸を最初は撰んだが、海岸はどうも騒雑の気味があるので晩成先生の心に染まなかった。さればとて故郷の平蕪の村落に病躯を持帰るのも厭わしかったと見えて、野州上州の山地や・・・ 幸田露伴 「観画談」
・・・葛城の神を駆使したり、前鬼後鬼を従えたり、伊豆の大島から富士へ飛んだり、末には母を銕鉢へ入れて外国へ行ったなどということであるが、余りあてになろう訳もない。小角は孔雀明王咒を持してそういうようになったというが、なるほど孔雀明王などのような豪・・・ 幸田露伴 「魔法修行者」
・・・ そのために東京、横浜、横須賀以下、東京湾の入口に近い千葉県の海岸、京浜間、相模の海岸、それから、伊豆の、相模なだに対面した海岸全たいから箱根地方へかけて、少くて四寸以上のゆれ巾、六寸の波動の大震動が来たのです。それが手引となって、東京・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
出典:青空文庫