・・・…… 自働車の止まったのは大伝馬町である。同時に乗客は三四人、一度に自働車を降りはじめた。宣教師はいつか本を膝に、きょろきょろ窓の外を眺めている。すると乗客の降り終るが早いか、十一二の少女が一人、まっ先に自働車へはいって来た。褪紅色の洋・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・さればや一艘の伝馬も来らざりければ、五分間も泊らで、船は急進直江津に向えり。 すわや海上の危機は逼ると覚しく、あなたこなたに散在したりし数十の漁船は、北るがごとく漕戻しつ。観音丸にちかづくものは櫓綱を弛めて、この異腹の兄弟の前途を危わし・・・ 泉鏡花 「取舵」
・・・『牡丹燈籠』は『書生気質』の終結した時より較やおくれて南伝馬町の稗史出版社から若林蔵氏の速記したのを出版したので、講談速記物の一番初めのものである。私は真実の口話の速記を文章としても面白いと思って『牡丹燈籠』を愛読していた。『書生気質』や『・・・ 内田魯庵 「明治の文学の開拓者」
・・・海から細く入江になっていて、伝馬や艀がひしひしと舳を並べた。小揚人足が賑かな節を合せて、船から米俵のような物を河岸倉へ運びこんでいる。晴れきって明るくはあるが、どこか影の薄いような秋の日に甲羅を干しながら、ぼんやり河岸縁に蹲んでいる労働者も・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・櫓の音をゆるやかにきしらせながら大船の伝馬をこいで行く男は、澄んだ声で船歌を流す。僕はこの時、少年ごころにも言い知られぬ悲哀を感じた。 たちまち小舟を飛ばして近づいて来た者がある、徳二郎であった。「酒を持って来た!」と徳は大声で二三・・・ 国木田独歩 「少年の悲哀」
・・・煙突の脇へ子供を負った婆さんとおばさんとが欄干にもたれて立って、伝馬の船底から山を見ている顔が淋しそうな。右舷へ出ると西日が照りつけて、蝶々に結った料理屋者らしいのが一人欄へもたれて沖をぼんやり見ている。会食室の戸が開いているからちらと見た・・・ 寺田寅彦 「高知がえり」
・・・風なき河に帆をあやつるのだから不規則な三角形の白き翼がいつまでも同じ所に停っているようである。伝馬の大きいのが二艘上って来る。ただ一人の船頭が艫に立って艪を漕ぐ、これもほとんど動かない。塔橋の欄干のあたりには白き影がちらちらする、大方鴎であ・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・塩町から大伝馬町に出る。本町を横切って、石町河岸から龍閑橋、鎌倉河岸に掛る。次第に人通が薄らぐので、九郎右衛門は手拭を出して頬被をして、わざとよろめきながら歩く。文吉はそれを扶ける振をして附いて行く。 神田橋外元護寺院二番原に来た時は丁・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
出典:青空文庫