・・・地上に住む人間が、最も親しい土や木や、水のほんとうの色を忘れ、匂いを忘れ、特質を忘れたら、彼等は、もはや何処にも、棲家を持たないといっていゝ。なぜなら、彼等は自然に対する、否、地に対する反逆者であるからです。 言い換えれば、地と人間の親・・・ 小川未明 「草木の暗示から」
・・・でも、そこからは、動物の棲家のように、異様な毛皮と、獣油の臭いが発散して来た。 それが、日本の兵卒達に、如何にも、毛唐の臭いだと思わせた。 子供達は、そこから、琺瑯引きの洗面器を抱えて毎日やって来た。ある時は、老人や婆さんがやって来・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・鬼の棲家を過ぎて仙郷に入るような気がして昔の支那人の書いた夢のような物語を想い出すのである。シー・ピー・スクラインがパミールの岩山の奥に「幸福の谷」を発見した記事を読んだときにいわゆる武陵桃源の昔話も全くの空想ではないと思ったことであったが・・・ 寺田寅彦 「雨の上高地」
・・・純潔な処女をこの一角の怪獣の棲家へ送り込むと、ウニコールがすっかり大人しくなって処女の胸に頭をすりつけて来る。そこを猟師がつかまえるのだという。相手がウニコールであるとは云いながら甚だ罪の深い仕業であると云わなければならない。 ・・・ 寺田寅彦 「マルコポロから」
・・・もう六つ、日の出を見れば、夜鴉の栖を根から海へ蹴落す役目があるわ。日の永い国へ渡ったら主の顔色が善くなろうと思うての親切からじゃ。ワハハハハ」とシワルドは傍若無人に笑う。「鳴かぬ烏の闇に滅り込むまでは……」と六尺一寸の身をのして胸板を拊・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・そういうところが、どうも自分に似たところがあるので、私はドンコが好きで、棲家をも「鈍魚庵」とした次第である。 しかし、ドンコ釣りを躊躇させる一時期がある。ドンコほど夫婦愛が深く、また、父性愛の強いものはない。産卵期になるといつもアベック・・・ 火野葦平 「ゲテ魚好き」
・・・小狐の隠れ顔なる野菊かな狐火の燃えつくばかり枯尾花草枯れて狐の飛脚通りけり水仙に狐遊ぶや宵月夜 怪異を詠みたるもの、化さうな傘かす寺の時雨かな西の京にばけもの栖て久しくあれ果たる家ありけり今は其さた・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・ けれども、そこも文学にとって遂の棲家であり得なかった。現実は健やかであると思う。子供たちは大人の心やりのために、彼等の喚声と動きとの明暮をもっているのではないのだから。 宮本百合子 「子供の世界」
・・・新らしい家と云うものが、ちっとも、贅沢な、フリーボラスな気分を醸さず、素朴な、自分等各々の献物によって形造られ、豊かにされた巣、心の棲家と云う落付きを持つ便利と云う点を云えば、米国風のアパートメントは勝れていましょうが、人間の心の要求の何も・・・ 宮本百合子 「書斎を中心にした家」
・・・ 小鳥は木のかげでこの強い風にゆらりともせいで居る大木をいっち偉いものじゃと思うたので風がおさまってから己の棲家に羽根を休むるとすぐ、お恵み深うていらせらるる天の神様私の美くしい姿と声を御返しいたしますほどに今日私の宿を致い・・・ 宮本百合子 「胚胎(二幕四場)」
出典:青空文庫