・・・ 通訳が腹巻を受けとる時、その白木綿に体温のあるのが、何だか不潔に感じられた。腹巻の中には三寸ばかりの、太い針がはいっていた。旅団参謀は窓明りに、何度もその針を検べて見た。が、それも平たい頭に、梅花の模様がついているほか、何も変った所は・・・ 芥川竜之介 「将軍」
大学生の中村は薄い春のオヴァ・コオトの下に彼自身の体温を感じながら、仄暗い石の階段を博物館の二階へ登っていった。階段を登りつめた左にあるのは爬虫類の標本室である。中村はそこへはいる前に、ちょっと金の腕時計を眺めた。腕時計の・・・ 芥川竜之介 「早春」
・・・僕はいつか外套の下に僕自身の体温を感じながら、前にもこう言う心もちを知っていたことを思い出した。それは僕の少年時代に或餓鬼大将にいじめられ、しかも泣かずに我慢して家へ帰った時の心もちだった。 何度も同じ小みちに出入した後、僕は古樒を焚い・・・ 芥川竜之介 「年末の一日」
・・・オーバの上からだったが、彼女の肌の柔かさと、体温がじかに触れるような気がして、白崎の手はやけどをしたような熱さにしびれた。 あわてて手を離した時、彼女の身体は巧くプラットホームの上へ辷り落ちていた。「どうも、ありがとうございました」・・・ 織田作之助 「昨日・今日・明日」
・・・ あとは無我夢中で、一種特別な体臭、濡れたような触感、しびれるような体温、身もだえて転々する奔放な肢体、気の遠くなるような律動。――女というものはいやいや男のされるがままになっているものだと思い込んでいた私は、愚か者であった。日頃慎まし・・・ 織田作之助 「世相」
・・・寝台には若い娘の体温と体臭がむうんとこもっていた。 寝台は狭かったので、体温が伝わってきた。 小沢は娘の寝巻の下が、裸であることを意識しながら、かえって固くなっていた。 娘の方から寝台へ誘ったのだし、そして、べつにそれを拒みたい・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・垢染た煎餅布団でも夜は磯吉と二人で寝るから互の体温で寒気も凌げるが一人では板のようにしゃちっ張って身に着かないで起きているよりも一倍寒く感ずる。ぶるぶる慄えそうになるので手足を縮められるだけ縮めて丸くなったところを見ると人が寝てるとは承知ん・・・ 国木田独歩 「竹の木戸」
・・・ 行くところなき思いの夜は、三十八度の体温を、アスピリンにて三十七度二、三分までさげて、停車場へ行き、三、四十銭の切符を買い、どこか知らぬ名の町まで、ふらと出かけて、そうして、そこの薄暗き盛り場のろのろ歩いて、路のかたわら、唐突の一本の・・・ 太宰治 「二十世紀旗手」
・・・電車の中は、人の体温で生あたたかく、そうして、ひどく速力が鈍い。電車の中で、走りたい気持。 吉祥寺、西荻窪、……おそい、実にのろい。電車の窓のひび割れたガラスの、そのひびの波状の線のとおりに指先をたどらせ、撫でさすって思わず、悲しい重い・・・ 太宰治 「犯人」
・・・ 今日は暑くて九十度を越したなどとというあの寒暖計、体温が三十九度もあるなどというあの寒暖計、それから風呂を四十度にしてくれなどというあの寒暖計、いずれもみな物理学上でいうところの「温度」を測り示すものであるが、非科学的国民の頭には、こ・・・ 寺田寅彦 「家庭の人へ」
出典:青空文庫