・・・何と云っても未だ体温を保っているんだからな。それに一番困ったことには、私が船員で、若いと来てるもんだから、いつでもグーグー喉を鳴らしてるってことだ。だから私は「好きなように」することが出来るんだ。それに又、今まで私と同じようにここに連れて来・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・ ――人の息だった。体温だった。だが、この部屋には深谷と自分とだけしかいない。深谷がおれの寝息をうかがうわけがない。万一、深谷がうかがったにしたところで、もしそうなら電燈のついた時彼が寝台の上にいるはずがない。そしてあんなに大っぴらに、・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
時は午後八時頃、体温は卅八度五分位、腹も背も臀も皆痛む、 アッ苦しいナ、痛いナ、アーアー人を馬鹿にして居るじゃないか、馬鹿、畜生、アッ痛、アッ痛、痛イ痛イ、寝返りしても痛いどころか、じっとして居ても痛いや。 アーアーいやにな・・・ 正岡子規 「煩悶」
・・・自身の創作のモティーヴを見きわめ、描こうとする対象と自身との渾一の状態を求め、話の筋よりは作家の生命が独特の色、体温、運動をもって小説の世界に呼吸しなければならない。そのように作家が己れにかえる道は、短篇小説の新しい見直しにあるのではないか・・・ 宮本百合子 「昭和の十四年間」
・・・或る職場に働いて生きる人々が生活の必要から出した要求を、経営者側はどのように扱ったかということでこれまでだって十分知っていた筈の働かせる者と働く者との関係が、その顔つきと声と体温との具体性によって実感され、字で読んで分っていたとは違う人間感・・・ 宮本百合子 「討論に即しての感想」
・・・している勤労者としての健全性の要求もわかるのであるが、十五歳の少年の半ば目ざめ、半ば眠っている官能的な愛、その対象を母に集注している心持、素朴な原始的な反抗心、それらがこの作者の特徴である色彩の濃い、体温のたかい感覚でかかれているので、たと・・・ 宮本百合子 「文芸時評」
・・・父の頭は大きくて、暖かく禿げていて、体温にとけ和らげられたオー・ド・キニーヌの匂いがいつも微かにしているのであった。 これが最後で、会わない八ヵ月の後、父は不意に、しかも日頃私が一番心配し、また避けたく思っていた事情の下で生涯を終った。・・・ 宮本百合子 「わが父」
・・・けれども、この頃を境として生活費の膨脹は熱病患者の体温計のように止めようとしても止まらない力で上昇した。しかし、労働賃銀というものはあらゆる場合に、物価高に追付くことは不可能であるから、二つの間の開きは破局的に大きくなって来た。このようにし・・・ 宮本百合子 「私たちの建設」
・・・ ボナパルトは自分の傍に蹲み込む妃の体温を身に感じた。「ルイザお前は何しに来た?」「陛下のお部屋から、激しい呻きが聞えました」 ルイザはナポレオンの両脇に手をかけて起そうとした。ナポレオンは周章てて拡った寝衣の襟をかき合せる・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・患者たちの安静を妨害した。一日の混乱は半カ月の静養を破壊する。患者たちの体温表は狂い出した。 しかし、この肺臓と心臓との戦いはまだ続いた。既に金網をもって防戦されたことを知った心臓は、風上から麦藁を燻べて肺臓めがけて吹き流した。煙は道徳・・・ 横光利一 「花園の思想」
出典:青空文庫