・・・「拝啓、貴下の夫人が貞操を守られざるは、再三御忠告……貴下が今日に至るまで、何等断乎たる処置に出でられざるは……されば夫人は旧日の情夫と共に、日夜……日本人にして且珈琲店の給仕女たりし房子夫人が、……支那人たる貴下のために、万斛の同情無・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・ 自分は、数年来この二つの疑問に対して、何等の手がかりをも得ずに、空しく東西の古文書を渉猟していた。が、「さまよえる猶太人」を取扱った文献の数は、非常に多い。自分がそれをことごとく読破すると云う事は、少くとも日本にいる限り、全く不可能な・・・ 芥川竜之介 「さまよえる猶太人」
・・・其処には何等かの意味に於て自ら額に汗せねばならぬ生活が待って居ます。私自身の地上生活及び天上生活が開かれ始めねばなりません。こう云う所まで来て見ると聖書から嘗て得た感動は波の遠音のように絶えず私の心耳を打って居ます。神学と伝説から切り放され・・・ 有島武郎 「『聖書』の権威」
・・・その中で何等の危害をも感ぜぬらしく見えるのは、一番恐ろしい運命の淵に臨んでいる産婦と胎児だけだった。二つの生命は昏々として死の方へ眠って行った。 丁度三時と思わしい時に――産気がついてから十二時間目に――夕を催す光の中で、最後と思わしい・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・ もしも又、私が此処に指摘したような性急な結論乃至告白を口にし、筆にしながら、一方に於て自分の生活を改善するところの何等かの努力を営み――仮令ば、頽廃的という事を口に讃美しながら、自分の脳神経の不健康を患うて鼻の療治をし、夫婦関係が無意・・・ 石川啄木 「性急な思想」
・・・立花は夢心地にも、何等か意味ありげに見て取ったので、つかつかと靴を近けて差覗いたが、ものの影を見るごとき、四辺は、針の長短と位地を分ち得るまでではないのに、判然と時間が分った。しかも九時半の処を指して、時計は死んでいるのであるが、鮮明にその・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・…… 畜生――修羅――何等の光景。 たちまち天に蔓って、あの湖の薬研の銀も真黒になったかと思うと、村人も、往来も、いつまたたく間か、どッと溜った。 謹三の袖に、ああ、娘が、引添う。…… あわれ、渠の胸には、清水がそのまま、血・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・日常事として居るは何とも羨しい次第である、彼等が自ら優等民族と称するも決して誇言ではない、兎角精神偏重の風ある東洋人は、古来食事の問題などは甚だ軽視して居った、食事と家庭問題食事と社会問題等に就て何等の研究もない、寧ろ食事を談ずるなどは・・・ 伊藤左千夫 「茶の湯の手帳」
・・・であるから政治家の変装たるヂレスリーの亜流を随喜しておっても、真の文人たるヂッケンスやサッカレーに対しては何等の注意を払わなかった。当時の文学革新は恰も等外官史の羽織袴を脱がして洋服に着更えさせたようなもので、外観だけは高等官吏に似寄って来・・・ 内田魯庵 「二十五年間の文人の社会的地位の進歩」
・・・これは架空的の宗教よりも強く、また何等根拠のない道徳よりももっと強くその子供の上に感化を与えている。神を信ずるよりも母を信ずる方が子供に取っては深く、且つ強いのである。実に母と子の関係は奇蹟と云っても可い程に尊い感じのするものであり、また強・・・ 小川未明 「愛に就ての問題」
出典:青空文庫