・・・むつかしやの隠居は小松菜の中から俎板のにおいをかぎ出してつけ物の皿を拒絶する。一びん百円の香水でもとにかく売れて行くのである。一方ではまた、嗅覚と性生活との関係を研究している学者もあるくらいである。 嗅覚につながる記憶ほど不思議なものは・・・ 寺田寅彦 「試験管」
・・・カルソーの母音の中の微妙な変化やテトラッチニの極度の高音やが分析の俎板に載せられている。それにもかかわらず母音の組成に関する秘密はまだ完全に明らかにはならない。ヘルムホルツ、ヘルマン以来の論争はまだ解決したとは言われないようである。このよう・・・ 寺田寅彦 「蓄音機」
・・・清と云う下総生れの頬ペタの赤い下女が俎の上で糠味噌から出し立ての細根大根を切っている。「御早よう、何はどうだ」と聞くと驚いた顔をして、襷を半分はずしながら「へえ」と云う。へえでは埓があかん。構わず飛び上って、茶の間へつかつか這入り込む。見る・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
十三日。 おかしな夢を見た。 ひどくごちゃごちゃ混雑した人ごみの狭い通りを歩いていると右側に一軒魚屋の店が出ていた。 男が一人鉢巻をし、体をゆすって、俎の上に切りみを作っている。立って見ていると表面の黒いかたま・・・ 宮本百合子 「静かな日曜」
・・・実弟須磨右衛門は親切にはしてくれるが、世話にばかりなってもいにくいので、未亡人は余り忙しくない奉公口をと云って捜して、とうとう小川町俎橋際の高家衆大沢右京大夫基昭が奥に使われることになった。 宇平の姉りよは叔母婿原田方に引き取られてから・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・海面は血を流した俎のように、真赤な声を潜めて静まっていた。その上で、舟は落された鳥のように、動かなかった。 彼は不意に空気の中から、黒い音のような凶徴を感じ出した。彼は急いでバルコオンを降りていった。向うの廊下から妻の母が急いで来た。二・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・が、またぶらぶら流し元まで戻って来ると俎を裏返してみたが急に彼は井戸傍の跳ね釣瓶の下へ駆け出した。「これは甘いぞ、甘いぞ。」 そういいながら吉は釣瓶の尻の重りに縛り付けられた欅の丸太を取りはずして、その代わり石を縛り付けた。 暫・・・ 横光利一 「笑われた子」
出典:青空文庫