・・・それから人が床の上へ、倒れる音も聞えたようです。遠藤は殆ど気違いのように、妙子の名前を呼びかけながら、全身の力を肩に集めて、何度も入口の戸へぶつかりました。 板の裂ける音、錠のはね飛ぶ音、――戸はとうとう破れました。しかし肝腎の部屋の中・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・が、やっと体を起したと思うと、すぐまた側にある椅子の上へ、倒れるように腰を下してしまった。 その時部屋の隅にいる陳彩は、静に壁際を離れながら、房子だった「物」の側に歩み寄った。そうしてその紫に腫上った顔へ、限りなく悲しそうな眼を落した。・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・しかもその場所は人気のない海べ、――ただ灰色の浪ばかりが、砂の上に寄せては倒れる、いかにも寂しい海べだったのです。 俊寛様のその時の御姿は、――そうです。世間に伝わっているのは、「童かとすれば年老いてその貌にあらず、法師かと思えばまた髪・・・ 芥川竜之介 「俊寛」
・・・画筆を握ったままぶっ倒れるんだ。おい、ともちゃん、悪態をついてるひまにモデル台に乗ってくれ。……それにしても花田や青島の奴、どうしたんだ。瀬古 全くおそいね。計略を敵に見すかされてむざむざと討ち死にしたかな。いったい計略計略って花田の・・・ 有島武郎 「ドモ又の死」
・・・その人が死んで倒れるまで、その前には炎々として焔が燃えている。心の奥底には一つの声が歌となるまでに漲り流れている。すべての疲れたる者はその人を見て再びその弱い足の上に立ち上がる。八 さりながらその人がちょっとでも他の道を顧み・・・ 有島武郎 「二つの道」
・・・ ――今度は、どこで倒れるだろう。さあ使いに行く。着るものは―― 私の田舎の叔母が一枚送ってくれた単衣を、病人に着せてあるのを剥ぐんです。その臭さというものは。……とにかく妻恋坂下の穴を出ました。 こんなにしていて、どうなるだろ・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・ 雑所は諸膝を折って、倒れるように、その傍で息を吐いた。が、そこではもう、火の粉は雪のように、袖へ掛っても、払えば濡れもしないで消えるのであった。明治四十四年一月 泉鏡花 「朱日記」
・・・立って倒れるのが、そのまま雪の丘のようになる……それが、右になり、左になり、横に積り、縦に敷きます。その行く処、飛ぶ処へ、人のからだを持って行って、仰向けにも、俯向せにもたたきつけるのです。 ――雪難之碑。――峰の尖ったような、そこの大・・・ 泉鏡花 「雪霊記事」
・・・ 母の手前兄夫婦の手前、泣くまいとこらえてようやくこらえていた僕は、自分の蚊帳へ這入り蒲団に倒れると、もうたまらなく一度にこみ上げてくる。口へは手拭を噛んで、涙を絞った。どれだけ涙が出たか、隣室の母から夜が明けた様だよと声を掛けられるま・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・これはズッと昔の事、尤もな、昔の事と思われるのは是ばかりでない、おれが一生の事、足を撃れて此処に倒れる迄の事は何も彼もズッと昔の事のように思われるのだが……或日町を通ると、人だかりがある。思わずも足を駐めて視ると、何か哀れな悲鳴を揚げている・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
出典:青空文庫