・・・誰かゞソッと側の方を向いて、鼻をかんだ。ある者は何か云おうとしたが、唇がふるえて云えなかった。皆は一言も云わなかった。――然し皆の胸の中には固い、固い決意が結ばれて行った。 * メリヤス工場では又々首切りがあるらしか・・・ 小林多喜二 「父帰る」
・・・なかの収入ありしもことごとくこのあたりの溝へ放棄り経綸と申すが多寡が糸扁いずれ天下は綱渡りのことまるまる遊んだところが杖突いて百年と昼も夜ものアジをやり甘い辛いがだんだん分ればおのずから灰汁もぬけ恋は側次第と目端が利き、軽い間に締りが附けば・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・私は二階の二部屋を次郎と三郎にあてがい(この兄弟は二人末子は階下にある茶の間の片すみで我慢させ、自分は玄関側の四畳半にこもって、そこを書斎とも応接間とも寝部屋ともしてきた。今一部屋もあったらと、私たちは言い暮らしてきた。それに、二階は明るい・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・私の本心の一側は、たしかにこの事実に対して不満足を唱える。もっと端的にわれらの実行道徳を突き動かす力が欲しい、しかもその力は直下に心眼の底に徹するもので、同時に讃仰し羅拝するに十分な情味を有するものであって欲しい。私はこの事実をわれらの第一・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・まだ章坊も貰わない、ずっと先の事であったし、小母さんは大変に藤さんを可愛がって、後には夜も家へ帰すよりか自分の側へ泊らせる方が多いくらいにしていた。はじめそこへ移ってきた翌る日であったか、藤さんがふと境の扇骨木垣の上から顔を出して、「小・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・その時奥さんは縁側に出て手ミシンで縫物をしていました。顔は百合の花のような血の気のない顔、頭の毛は喪のベールのような黒い髪、しかして罌粟のような赤い毛の帽子をかぶっていました。奥さんは聖ヨハネの祭日にむすめに着せようとして、美しい前掛けを縫・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・「海は、海の見えるのは、どちら側です。」 私はまず車掌に尋ねる。この線は海岸のすぐ近くを通っているのである。私たちは、海の見える側に坐った。「海が見えるよ。もうすぐ見えるよ。浦島太郎さんの海が見えるよ。」 私ひとり、何かと騒・・・ 太宰治 「海」
・・・高粱の高い影は二間幅の広い路を蔽って、さらに向こう側の高粱の上に蔽い重なった。路傍の小さな草の影もおびただしく長く、東方の丘陵は浮き出すようにはっきりと見える。さびしい悲しい夕暮れは譬え難い一種の影の力をもって迫ってきた。 高粱の絶えた・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・もう一つの予言はどうなるか分らないが、ともかくも今まで片側だけしか見る事の出来なかった世界は、これを掌上に置いて意のままに任意の側から観る事が出来るようになった。観者に関するあらゆる絶対性を打破する事によって現出された客観的実在は、ある意味・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・雪江が私の机の側へ来て、雑誌などを読んでいるときに、それとなく話しかける口吻によってみると、彼女には幾分の悶えがないわけにはいかなかった。学校を出てから、東京へ出て、時代の新しい空気に触れることを希望していながら、固定的な義姉の愛に囚われて・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
出典:青空文庫