・・・帰りに矢来から江戸川の終点へ出ると、明き地にアセチリン瓦斯をともして、催眠術の本を売っている男がある。そいつが中々たくれいふうはつしているから、面白がって前の方へ出て聞いていると、あなたを一つかけて上げましょうと云われたので、そうそう退却し・・・ 芥川竜之介 「田端日記」
・・・「やっぱり薬ばかり嚥んでいる。催眠薬だけでも大変だよ。ヴェロナアル、ノイロナアル、トリオナアル、ヌマアル……」 三十分ばかりたった後、僕は或ビルディングへはいり、昇降機に乗って三階へのぼった。それから或レストオランの硝子戸を押しては・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・高が進歩した催眠術に過ぎないのですから。――御覧なさい。この手をただ、こうしさえすれば好いのです。」 ミスラ君は手を挙げて、二三度私の眼の前へ三角形のようなものを描きましたが、やがてその手をテエブルの上へやると、縁へ赤く織り出した模様の・・・ 芥川竜之介 「魔術」
・・・飲む方も催眠剤に珈琲を使用するようでは、全く憂鬱だろうが、そんな風に飲まれる珈琲も恐らく憂鬱であろう。 それと同じでんで、大阪を書くということは、例えば永井荷風や久保田万太郎が東京を愛して東京を書いているように、大阪の情緒を香りの高い珈・・・ 織田作之助 「大阪の憂鬱」
・・・そこで催眠剤の大箱を一個買い、それからほかの薬屋に行って別種の催眠剤を一箱買った。かず枝を店の外に待たせて置いて、嘉七は笑いながらその薬品を買い求めたので、別段、薬屋にあやしまれることはなかった。さいごに三越にはいり、薬品部に行き、店の雑沓・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・末弟が一時、催眠術の研究をはじめて、祖父、母、兄たち姉たち、みんなにその術をかけてみても誰も一向にかからない。みんな、きょろきょろしている。大笑いになった。末弟ひとり泣きべそかいて、汗を流し、最後に祖母へかけてみたら、たちまちにかかった。祖・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
・・・を冬の夜長の催眠剤のつもりで読んでみた。読んでいるうちに実に意外にも今を去る二千数百年前のギリシア人が実に巧妙な方法でしかも電波によって遠距離通信を実行していたという驚くべき記録に逢ってすっかり眠気をさまされてしまったのである。尤も電波とは・・・ 寺田寅彦 「変った話」
・・・見慣れぬビルディング街の夜の催眠術にかかって、いつのまにか方角がわからなくなってしまう、ということは、きわめて有りそうなことである。それが、たださえ暗い胸の闇路を夢のようにたどっている人間だとすれば、これはむしろ当然すぎるほど当然なことであ・・・ 寺田寅彦 「蒸発皿」
・・・呼び出されたボーイの証言によると、昨夜この催眠薬を買って来いというので、一度買って帰ったが、もっとたくさん買って来いという、そんなに飲んだら悪いだろうと言ってみたが、これがないと、どうしても眠られない、飲まないと気が違いそうだからぜひにと嘆・・・ 寺田寅彦 「B教授の死」
・・・ありゃみんな催眠術でげす……」「なるほど妙な本だね」と源さんは煙に捲かれている。「拙が一返古榎になった事がありやす、ところへ源兵衛村の作蔵と云う若い衆が首を縊りに来やした……」「何だい狸が何か云ってるのか」「どうもそうらしい・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
出典:青空文庫