・・・これら僅か数篇の名詩だけでも、ニイチェは抒情詩人として一流の列に入り得るだらう。 ニイチェのショーペンハウエルに対する関係は、新約全書の旧約全書に対するやうなものである。だれも知る通り、旧約の神エホバは怒と復讐の神であり、新約の神は・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・前は、秋になると、大倉庫五棟に入り切れないほどの、小作米になる青田に向っていた。 邸後の森からは、小川が一度邸内の泉水を潜って、前の田へと灑がれていた。 消防組の赤い半纒を着た人たちや、青年会の連中が邸内のあちこちに眠そうな手で蚊を・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・ 洗い物をして来たお熊は、室の内に入りながら、「おや、もうお起きなすッたんですか。もすこしお臥ッてらッしゃればいいのに」と、持ッて来た茶碗小皿などを茶棚へしまいかけた。「なにもう寝なくッても――こんなに明るくなッちゃア寝てもいられま・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・外に賤業婦を弄ぶのみか、此男は某地方出身の者にて、郷里に正当の妻を遺し、東京に来りて更らに第二の妻と結婚して、所謂一妻一妾は扨置き、二妻数妾の滅茶苦茶なれば、子供の厳父に於ける、唯その厳重なる命令に恐入り、何事に就ても唯々諾々するのみ、曾て・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・の気象を養ったら、何となく人生を超絶して、一段上に出る塩梅で、苦痛にも何にも捉えられん、仏者の所謂自在天に入りはすまいかと考えた。 そこで、心理学の研究に入った。 古人は精神的に「仁」を養ったが、我々新時代の人は物理的に養うべきでは・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・そこかしこはらひもせぬにや塵ひぢ山をなせり、柴の門もなくおぼつかなくも家にいりぬ、師質心せきたるさまして参議君の御成ぞと大声にいへるに驚きて、うちよりししじもの膝折ふせながらはひいでぬ、すこし広き所に入りてみれば壁落かかり障子はやぶれ畳はき・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・森へ入りますと、すぐしめったつめたい風と朽葉の匂とが、すっとみんなを襲いました。 みんなはどんどん踏みこんで行きました。 すると森の奥の方で何かパチパチ音がしました。 急いでそっちへ行って見ますと、すきとおったばら色の火がどんど・・・ 宮沢賢治 「狼森と笊森、盗森」
・・・大衆的な某誌は、その反動保守的な編輯方針の中で、色刷り插絵入りで、食い物のこと、悲歎に沈む人妻の涙話、お国のために疲れを忘れる勤労女性の実話、男子の興味をそそる筆致をふくめた産児制限談をのせて来た。 また、或る婦人雑誌はその背後にある団・・・ 宮本百合子 「合図の旗」
・・・討手でないのに、阿部が屋敷に入り込んで手出しをすることは厳禁であるが、落人は勝手に討ち取れというのが二つであった。 阿部一族は討手の向う日をその前日に聞き知って、まず邸内を隈なく掃除し、見苦しい物はことごとく焼きすてた。それから老若打ち・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・「明日のオペラ座の切符手に入り候に付、主人同道お誘いに参り可申候、何卒御待受被下度候。母上様」と云うのでした。お母あ様の所へ出す手紙を、あなたはわたくしの部屋に落してお置きになったですねえ。 女。おや。そうでしたか。あの手紙はあなたの所・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「最終の午後」
出典:青空文庫