・・・しかし其処に独特のシャルム――たとえば精神的カメレオンに対するシャルムの存することも事実である。 宇野浩二は本名格二郎である。あの色の浅黒い顔は正に格二郎に違いない。殊に三味線を弾いている宇野は浩さん離れのした格さんである。 次手に・・・ 芥川竜之介 「格さんと食慾」
・・・そして事務所では金の借貸は一切しないから縁者になる川森からでも借りるがいいし、今夜は何しろ其所に行って泊めてもらえと注意した。仁右衛門はもう向腹を立ててしまっていた。黙りこくって出て行こうとすると、そこに居合わせた男が一緒に行ってやるから待・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
この犬は名を附けて人に呼ばれたことはない。永い冬の間、何処にどうして居るか、何を食べて居るか、誰も知らぬ。暖かそうな小屋に近づけば、其処に飼われて居る犬が、これも同じように饑渇に困められては居ながら、その家の飼犬だというの・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・B 近所にミルクホールが有るから其処へ行く。君の歌も其処で読んだんだ。何でも雑誌をとってる家だからね。そうそう、君は何日か短歌が滅びるとおれに言ったことがあるね。この頃その短歌滅亡論という奴が流行って来たじゃないか。A 流行るかね。・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・ その声が、直ぐ耳近に聞こえたが、つい目前の樹の枝や、茄子畑の垣根にした藤豆の葉蔭ではなく、歩行く足許の低い処。 其処で、立ち佇って、ちょっと気を注けたが、もう留んで寂りする。――秋の彼岸過ぎ三時下りの、西日が薄曇った時であった。こ・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・挨拶にも見えないから、風でもひいてるのかと思うていた岡村の親父は、其所の小座敷で人と碁を打って居る。予はまさかに碁を打ってる人に挨拶も出来ない。しかしどうしても其の前を通らねばならない。止むを得ず黙って通ったが、生れて覚えのない苦痛を感じた・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・二代目喜兵衛が譲り受けた軽焼屋はいつごろからの店であったか、これも解らぬが、その頃は最早軽焼屋の店は其処にも此処にもあってさして珍らしくなかったようだ。 が、長崎渡りの珍菓として賞でられた軽焼があまねく世間に広がったは疱瘡痲疹の流行が原・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ 娘は、それとも知らずに、下を向いて絵を描いていました。其処へ、お爺さんとお婆さんとが入って来て、「さあ、お前は行くのだ」と、言って連れ出そうとしました。 娘は、手に持っている蝋燭に、せき立てられるので絵を描くことが出来ずに、そ・・・ 小川未明 「赤い蝋燭と人魚」
・・・と自分で叫びながら、漸く、向うの橋詰までくると、其処に白い着物を着た男が、一人立っていて盛に笑っているのだ、おかしな奴だと思って不図見ると、交番所の前に立っていた巡査だ、巡査は笑いながら「一体今何をしていたのか」と訊くから、何しろこんな、出・・・ 小山内薫 「今戸狐」
・・・誰か同じく脚に傷を負って、若くは腹に弾丸を有って、置去の憂目を見ている奴が其処らに居るのではあるまいか。唸声は顕然と近くにするが近処に人が居そうにもない。はッ、これはしたり、何の事た、おれおれ、この俺が唸るのだ。微かな情ない声が出おるわい。・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
出典:青空文庫