・・・ たちまち群集の波に捲かれると、大橋の橋杭に打衝るような円タクに、「――環海ビルジング」「――もう、ここかい――いや、御苦労でした――」 おやおや、会場は近かった。土橋寄りだ、と思うが、あの華やかな銀座の裏を返して、黒幕・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・半分は捨鉢な気持で新聞広告で見た霞町のガレーヂへ行き、円タク助手に雇われた。ここでは学歴なども訊かれず、かえってさばさばした気持だった。しかし、一日に十三時間も乗り廻すので、時々目が眩んだ。ある日、手を挙げていた客の姿に気づかなかったと、運・・・ 織田作之助 「雨」
・・・頭も朦朧としていたが、寄って来る円タクも朦朧だった。「天下茶屋まで五円で行け!」「十円やって下さいよ」「五円だと言ったら、五円だ!」「じゃ、八円にしときましょう」「五円!」「じゃ、七円!」「行けと言ったら行け! ・・・ 織田作之助 「四月馬鹿」
・・・逃げるようにして花屋から躍り出て、それから、円タク拾って、お宅へ、まっしぐら。郊外の博士のお宅には、電燈が、あかあかと灯って居ります。たのしいわが家。いつも、あたたかく、博士をいたわり、すべてが、うまくいって居ります。玄関へはいるなり、・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・けれども、わが身が円タク拾って荻窪の自宅へ易々とかえれるような状態に在るうちは、心もにぶって、なかなか死ねまい。とにかく東京から一歩でも、半歩でもなんでも外へ出る。何卒して、今夜のうちに、とりかえしのつかないところまで行ってしまって置かなけ・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・ 円タクひろった。淀橋に走らせた。 自動車の中で、「ばかだ。ばかも、ばかも、大ばかだ。君には、お礼を言う。よく知らせて呉れた。」数枝は、不吉な予感に、気が遠くなりそうだった。「僕は、さちよを愛している。愛して、愛して、愛している・・・ 太宰治 「火の鳥」
・・・ 鋭い眼をした主人公が、銀座へ出て片手あげて円タクを呼びとめるところから話がはじまり、しかもその主人公は高まいなる理想を持ち、その理想ゆえに艱難辛苦をつぶさに嘗め、その恥じるところなき阿修羅のすがたが、百千の読者の心に迫るのだ。そうして・・・ 太宰治 「めくら草紙」
・・・という意味のエピグラムを刻しておくといいかと思うが、その前を通る人が皆円タクに乗っているのではこれもやはりなんの役にも立ちそうもない。むしろ銀座アルプス連峰の頂上ごとにそういう碑銘を最も目につきやすいような形で備えたほうが有効であるかもしれ・・・ 寺田寅彦 「銀座アルプス」
・・・には、どこか科学的なスケプチシズムの匂いがある。円タクで白山坂上にさしかかると、六十恰好の巌丈な仕事師上がりらしい爺さんが、浴衣がけで車の前を蹣跚として歩いて行く。丁度安全地帯の脇の狭い処で、車をかわす余地がない。警笛を鳴らしても爺さんは知・・・ 寺田寅彦 「KからQまで」
・・・しかしとにかく一度ゴルフ場へお伴をして見学だけさせてもらおうということになって、今年の六月末のある水曜日の午前に二人で駒込から円タクを拾って赤羽のリンクへ出かけた。空梅雨に代表的な天気で、今にも降り出しそうな空が不得要領に晴れ、太陽が照りつ・・・ 寺田寅彦 「ゴルフ随行記」
出典:青空文庫