・・・ あたたかくなって、そろそろ桜の花がひらきはじめ、僕はその日、前進座の若手俳優の中村国男君と、眉山軒で逢って或る用談をすることになっていた。用談というのは、実は彼の縁談なのであるが、少しややこしく、僕の家では、ちょっと声をひそめて相談し・・・ 太宰治 「眉山」
・・・われ、事に於いて後悔せず、との菊池氏の金看板の楯の弱さにも、ふと気づいて、地上の王者へ、無言で一杯のミルクささげてやって呉れる決意ついたら、それが、また、君のからだの一歩前進なること疑う勿れ。 営利目的の病院ゆえ、あらゆる手段にて患・・・ 太宰治 「HUMAN LOST」
・・・ さればとて前進すれば必ず戦争の巷の人とならなければならぬ。戦争の巷に入れば死を覚悟しなければならぬ。かれは今始めて、病院を退院したことの愚をひしと胸に思い当たった。病院から後送されるようにすればよかった……と思った。 もうだめだ、万事・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・そのためにややもすると前進する勇気を阻喪しやすい。頭の悪い人は前途に霧がかかっているためにかえって楽観的である。そうして難関に出会っても存外どうにかしてそれを切り抜けて行く。どうにも抜けられない難関というのはきわめてまれだからである。 ・・・ 寺田寅彦 「科学者とあたま」
・・・この効果の最も著しく感ぜられる場合は、たとえば茂みの中を鉄砲を持って前進する猟者を側面から映写しながら追跡する場合である。スクリーンと自分の目とが静止しているとは思われなくて、スクリーンが猟者といっしょに進行するのを、絶えず目を横に動かして・・・ 寺田寅彦 「耳と目」
・・・た上にまた切りつめられてどこまで押して行くか分らないうちに、彼の反対の活力消耗と名づけておいた道楽根性の方もまた自由わがままのできる限りを尽して、これまた瞬時の絶間なく天然自然と発達しつつとめどもなく前進するのである。この道楽根性の発展も道・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・、わがいわゆる乗るは彼らのいわゆる乗るにあらざるなり、鞍に尻をおろさざるなり、ペダルに足をかけざるなり、ただ力学の原理に依頼して毫も人工を弄せざるの意なり、人をもよけず馬をも避けず水火をも辞せず驀地に前進するの義なり、去るほどにその格好たる・・・ 夏目漱石 「自転車日記」
・・・われらは渾身の気力を挙げて、われらが過去を破壊しつつ、斃れるまで前進するのである。しかもわれらが斃れる時、われらの烟突が西洋の烟突の如く盛んな烟りを吐き、われらの汽車が西洋の汽車の如く広い鉄軌を走り、われらの資本が公債となって西洋に流用せら・・・ 夏目漱石 「マードック先生の『日本歴史』」
・・・しかもそれは一人の前進的な人間の小市民的インテリゲンツィアからボルシェビキへの成長の過程であり、日本のプロレタリア解放運動とその文学運動の歴史のひとこまでもある。そのひとこまには濃厚に、日本の天皇制権力の野蛮さとそれとの抗争のかげがさしてい・・・ 宮本百合子 「巖の花」
・・・が、日本の民主的な文学の流れは、昭和のはじめ世界の民主主義の前進につれて歴史的に高まり、プロレタリア文学の誕生を見た。その当時、その流れの中からこそ、これまでとちがった勤労婦人の中からの婦人作家が出て来た。佐多稲子、松田解子、平林たい子、藤・・・ 宮本百合子 「明日咲く花」
出典:青空文庫