・・・急に肥ったように感じられた。 ケーブルカーの車掌は何を言っても返事をしないですましていた。話をしてはいけない規則だと見える。急勾配を登る時に両方の耳が変な気持ちになる。気圧が急に下がるからだという。つばを飲み込むと直る。ピークで降りると・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・こういう家に通有な、急勾配で踏めばギシギシ音のする階段であった。段を上がった処が六畳くらいの部屋で表の窓は往来に面していた。その背後に三畳くらいの小さな部屋があってそこには蚊帳が吊るして寝床が敷いたままになっていた。裏窓からその蚊帳を通して・・・ 寺田寅彦 「中村彝氏の追憶」
・・・その間に勾配の急な木造の小橋がいくつとなくかかっている光景は、昭和の今日に至っても、明治のむかしとさして変りがない。かくの如き昔ながらの汚い光景は、わたくしをして、二十年前亡友A氏と共にしばしばこのあたりの古寺を訪うた頃の事やら、それよりま・・・ 永井荷風 「深川の散歩」
・・・裏の窓より見渡せば見ゆるものは茂る葉の木株、碧りなる野原、及びその間に点綴する勾配の急なる赤き屋根のみ。西風の吹くこの頃の眺めはいと晴れやかに心地よし。 余は茂る葉を見ようと思い、青き野を眺めようと思うて実は裏の窓から首を出したのである・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・その高低を線で示せば平たい直線では無理なので、やはり幾分か勾配のついた弧線すなわち弓形の曲線で示さなければならなくなる。こんなに説明するとかえって込み入ってむずかしくなるかも知れませんが、学者は分った事を分りにくく言うもので、素人は分らない・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・ここは勾配だから速いぞ。ぼくはいまその電燈を通り越とジョバンニが思いながら、大股にその街燈の下を通り過ぎたとき、いきなりひるまのザネリが、新らしいえりの尖ったシャツを着て電燈の向う側の暗い小路から出て来て、ひらっとジョバンニとすれちがい・・・ 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
・・・ 善光寺を建てた坊さんは、長野の市街が天然にもっている土地の勾配というものを実にうまくとらえ、造形化したものだと思う。見通しの美的効果というものを、敏感に利用している。その勾配を、小旗握った宿屋の番頭に引率された善男善女の大群が、連綿と・・・ 宮本百合子 「上林からの手紙」
・・・それは折たたみ椅子でのばすと長椅子にして寝られ背の勾配も加減できるのです。籐でしっかりしていて、お父さんの大きいお体でも平気です。近く山崎さんの伯父上[自注9]が御出京になり、あなたにもお会いになりたいそうです。 ところで、この手紙はき・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・「ならし六度の勾配になって居ります これからずーっと上りになります」「ふーむ、ずーっとね」その男松川やの細君の手真似をする――手をずーっととあげて。やがて、ギーアをかえ爆音つよし「ほらのぼりだな、音でわかっるね、こういう音は馬力・・・ 宮本百合子 「一九二七年春より」
・・・台町の方から坂の上までは人力車が通うが、左側に近頃刈り込んだ事のなさそうな生垣を見て右側に広い邸跡を大きい松が一本我物顔に占めている赤土の地盤を見ながら、ここからが坂だと思う辺まで来ると、突然勾配の強い、狭い、曲りくねった小道になる。人力車・・・ 森鴎外 「鼠坂」
出典:青空文庫