・・・その夕、船堀橋から堤づたいに、葛西橋の灯を望んだ際には、橋の名も知らず、またそこから僅四、五町にして放水路の堤防が、靴の先のような形をなして海の中に没していることなどは、勿論知ろうはずがなかった。 夜は忽ち暗黒の中に眺望を遮るのみか、橋・・・ 永井荷風 「放水路」
・・・行く末は勿論アストラットじゃ」と三日過ぎてアストラットに帰れるラヴェンは父と妹に物語る。「ランスロット?」と父は驚きの眉を張る。女は「あな」とのみ髪に挿す花の色を顫わす。「二十余人の敵と渡り合えるうち、何者かの槍を受け損じてか、鎧の・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・したがつてまたその表装も、勿論私自身の趣味によつてのみ選定されねばならないのだ。そこではどんな他人の表装も――恐らくは雪舟自身の表装も――断じて許すことができないのである。 それ故西洋諸国の出版業者が、著者に対する尊敬と読者に対する愛敬・・・ 萩原朔太郎 「装幀の意義」
・・・若し、ここで私をひどく驚かした者が無かったなら、私はそこで丁字路の角だったことなどには、勿論気がつかなかっただろう。処が、私の、今の今まで「此世の中で俺の相手になんぞなりそうな奴は、一人だっていやしないや」と云う私の観念を打ち破って、私を出・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・近年の男子中には往々此道を知らず、幼年の時より他人の家に養われて衣食は勿論、学校教育の事に至るまでも、一切万事養家の世話に預り、年漸く長じて家の娘と結婚、養父母は先ず是れにて安心と思いの外、この養子が羽翼既に成りて社会に頭角を顕すと同時に、・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・小説に摸写せし現象も勿論偶然のものには相違なけれど、言葉の言廻し脚色の摸様によりて此偶然の形の中に明白に自然の意を写し出さんこと、是れ摸写小説の目的とする所なり。夫れ文章は活んことを要す。文章活ざれば意ありと雖も明白なり難く、脚色は意に適切・・・ 二葉亭四迷 「小説総論」
・・・その広い川に小舟が一艘浮いて居る。勿論月夜の景で、波は月に映じてきらきらとして居る。昼のように明るい。それで遠くに居る小舟まで見えるので、さてその小舟が段々遠ざかって終に見えなくなったという事を句にしようと思うたが出来ぬ。しかしまだ小舟はな・・・ 正岡子規 「句合の月」
・・・風車なら僕を悪く思っちゃいないんだよ。勿論時々壊すこともあるけれども廻してやるときの方がずうっと多いんだ。風車ならちっとも僕を悪く思っちゃいないんだ。うそと思ったら聴いてごらん。お前たちはまるで勝手だねえ、僕たちがちっとばっかしいたずらする・・・ 宮沢賢治 「風野又三郎」
・・・このところは、恐らく溝口氏自身も十分意を達した表現とは感じていないのではなかろうか。勿論俳優の力量という制約があるが、あの大切な、謂わば製作者溝口の、人生に対する都会的なロマンチシズムの頂点の表現にあたって、あれ程単純に山路ふみ子の柄にはま・・・ 宮本百合子 「「愛怨峡」における映画的表現の問題」
・・・我が事、人の事と言わず、くだらない物が讃めてあったり、面白い物がけなしてあったりするのを見て、不公平を感ずるのである。勿論自分が引合に出されている時には、一層切実に感ずるには違ない。 ルウズウェルトは「不公平と見たら、戦え」と世界中を説・・・ 森鴎外 「あそび」
出典:青空文庫