・・・しかし支那人の労働者も単に支那人と生まれたが故に、千住から退去を命ぜられた。これも正義に反している。日本は新聞紙の伝える通り、――いや、日本は二千年来、常に「正義の味方」である。正義はまだ日本の利害と一度も矛盾はしなかったらしい。 武器・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・に、羽が透き、身が染って、数限りもない赤蜻蛉の、大流れを漲らして飛ぶのが、行違ったり、卍に舞乱れたりするんじゃあない、上へ斜、下へ斜、右へ斜、左へ斜といった形で、おなじ方向を真北へさして、見当は浅草、千住、それから先はどこまでだか、ほとんど・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・ 東の半面は亀井戸辺より小松川へかけ木下川から堀切を包んで千住近傍へ到って止まる。この範囲は異論があれば取除いてもよい。しかし一種の趣味があって武蔵野に相違ないことは前に申したとおりである―― 八 自分は以上の所・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
夜の隅田川の事を話せと云ったって、別に珍らしいことはない、唯闇黒というばかりだ。しかし千住から吾妻橋、厩橋、両国から大橋、永代と下って行くと仮定すると、随分夜中に川へ出て漁猟をして居る人が沢山ある。尤も冬などは沢山は出て居・・・ 幸田露伴 「夜の隅田川」
・・・てるは、千住の蕎麦屋に住込みで奉公する事になった。千住に二年つとめて、それから月島のミルクホールに少しいて、さらに上野の米久に移り住んだ。ここに三年いたのである。わずかなお給金の中から、二円でも三円でも毎月かかさず親元へ仕送りをつづけた。十・・・ 太宰治 「古典風」
・・・振袖火事として知られた明暦の大火は言うまでもなく、明和九年二月二十九日の午ごろ目黒行人坂大円寺から起こった火事はおりからの南西風に乗じて芝桜田から今の丸の内を焼いて神田下谷浅草と焼けつづけ、とうとう千住までも焼け抜けて、なおその火の支流は本・・・ 寺田寅彦 「函館の大火について」
・・・渡頭に下り立ちて船に上る。千住よりの小蒸気けたゝましき笛ならして過ぐれば余波舷をあおる事少時。乗客間もなく満ちて船は中流に出でたり。雨催の空濁江に映りて、堤下の杭に漣れんい寄するも、蘆荻の声静かなりし昔の様尋ぬるに由なく、渡番小屋にペンキ塗・・・ 寺田寅彦 「半日ある記」
・・・小皿の上に三片ばかり赤味がかった松脂見たようなもののあるのはである。千住の名産寒鮒の雀焼に川海老の串焼と今戸名物の甘い甘い柚味噌は、お茶漬の時お妾が大好物のなくてはならぬ品物である。先生は汚らしい桶の蓋を静に取って、下痢した人糞のような色を・・・ 永井荷風 「妾宅」
隅田川の両岸は、千住から永代の橋畔に至るまで、今はいずこも散策の興を催すには適しなくなった。やむことをえず、わたくしはこれに代るところを荒川放水路の堤に求めて、折々杖を曳くのである。 荒川放水路は明治四十三年の八月、都下に未曾有の・・・ 永井荷風 「放水路」
・・・然るに今日に至っては隅田川の沿岸には上流綾瀬の河口から千住に至るあたりの沮洳の地にさえ既に蒹葭蘆荻を見ることが少くなった。わたくしはかつて『夏の町』と題する拙稾に明治三十年の頃には両国橋の下流本所御船倉の岸に浮洲があって蘆荻のなお繁茂してい・・・ 永井荷風 「向嶋」
出典:青空文庫