・・・を草しつつあった際、一面識もない人が時々書信又は絵端書抔をわざわざ寄せて意外の褒辞を賜わった事がある。自分が書いたものが斯んな見ず知らずの人から同情を受けて居ると云う事を発見するのは非常に難有い。今出版の機を利用して是等の諸君に向って一言感・・・ 夏目漱石 「『吾輩は猫である』上篇自序」
・・・ 私はたとえば、彼女が三人のごろつきの手から遁げられるように、であるとか、又はすぐ警察へ、とでも云うだろうと期待していた。そしてそれが彼女の望み少い生命にとっての最後の試みであるだろうと思っていた。一筋の藁だと思っていた。 可哀想に・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・ 各々が受持った五本又は七本の、導火線に点火し終ると、駈足で登山でもするように、二方の捲上の線路に添うて、駆け上った。 必要な掘鑿は、長四方形に川岸に沿うて、水面下六十尺の深さに穴を明ける仕事であった。 だから、捲上の線は余分な・・・ 葉山嘉樹 「坑夫の子」
一 夫女子は成長して他人の家へ行き舅姑に仕ふるものなれば、男子よりも親の教緩にすべからず。父母寵愛して恣に育ぬれば、夫の家に行て心ず気随にて夫に疏れ、又は舅の誨へ正ければ堪がたく思ひ舅を恨誹り、中悪敷成て終には追出され恥・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
一 夫れ女子は男子に等しく生れて父母に養育せらるゝの約束なれば、其成長に至るまで両親の責任軽からずと知る可し。多産又は病身の母なれば乳母を雇うも母体衛生の為めに止むを得ざれども、成る可くば実母の乳を以て養う可し。母体平生の健・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・此の際に在ては、徒らにコンマやピリオド、又は其の他の形にばかり拘泥していてはいけない、先ず根本たる詩想をよく呑み込んで、然る後、詩形を崩さずに翻訳するようにせなければならぬ。 実際自分がツルゲーネフを翻訳する時は、力めて其の詩想を忘れず・・・ 二葉亭四迷 「余が翻訳の標準」
・・・re's nae room at my side, Margret,My coffin is made so meet.” 其意は、女の方が、私はお前の所へ行き度いが、お前の枕元か足元か、又は傍らの方に、私がはいこむ程の隙がある・・・ 正岡子規 「死後」
・・・ すると今度はずうっと遠くで風の音か笛の声か、又は鹿の子の歌かこんなように聞えました。「北風ぴいぴい、かんこかんこ 西風どうどう、どっこどっこ。」 狐が又ひげをひねって云いました。「雪が柔らかになるといけませんから・・・ 宮沢賢治 「雪渡り」
・・・レーンの小説「戦争」又はレマルクの「西部戦線異状なし」バルビュスの「砲火」などを読んだ人々は、燈火管制下の夜の凄さというものは、仮死どころか、その闇の中にあって異常に張りつめられている注意、期待、決意がかもし出す最も密度の濃い沈黙的緊張の凄・・・ 宮本百合子 「明日の言葉」
・・・その事実はシベリアを通ってここまで来る間、少し主だった駅に、どの位の貨車が引きこまれ積荷の用意をし、又は白墨でいろんな符牒を書かれ出発を待って引こみ線にいたかを思い出すだけで証明される。この陸橋だってそうだ。もと、この駅にはこんなに貨物列車・・・ 宮本百合子 「新しきシベリアを横切る」
出典:青空文庫