・・・おひろは銚子を取り上げながら辰之助に聞いたりした。「伯父さんの病気でね」「ああ、松山さんでしょう。あの体の大きい立派な顔の……二三日前に聞きましたわ。もう少し生きていてもらわんと困るって、伊都喜さんが話していらしたわ」 伊都喜と・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・ギニヴィアはつと石階を下りて、乱るる百合の花の中より、エレーンの右の手に握る文を取り上げて何事と封を切る。 悲しき声はまた水を渡りて、「……うつくしき……恋、色や……うつろう」と細き糸ふって波うたせたる時の如くに人々の耳を貫く。 読・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・と、吉里がまた注ぎにかかるのを、小万は無理に取り上げた。吉里は一息に飲み乾し、顔をしかめて横を向き、苦しそうに息を吐いた。「剛情だよ、また後で苦しがろうと思ッて」「お酒で苦しいくらいなことは……。察して下さるのは兄さんばかりだよ」と・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ただに遠国のみならず、現に両国境を接する日耳曼と仏蘭西との戦争において、日は仏より五十億フランクの償金を取上げたり。他なし、隣国を貧にして自から富むの手段のみ。 かくの如きはすなわち、日耳曼の人民は隣人の貧困をみて愉快を覚ゆる者ならん。・・・ 福沢諭吉 「教育の目的」
・・・ ゴーシュはセロを取り上げてボロンボロンと糸を合わせてドレミファソラシドとひきました。するとかっこうはあわてて羽をばたばたしました。「ちがいます、ちがいます。そんなんでないんです。」「うるさいなあ。ではおまえやってごらん。」・・・ 宮沢賢治 「セロ弾きのゴーシュ」
・・・ 呑助が酒を取り上げられたのと同じになるのをつい此間から草花でまぎらす事を気がついた。 五六本ある西洋葵の世話だのコスモスとダーリアの花を数えたりして居る。 早りっ気で思い立つと足元から火の燃えだした様にせかせか仕だす癖が有るの・・・ 宮本百合子 「秋毛」
・・・ 木村は座布団の側にある日出新聞を取り上げて、空虚にしてある机の上に広げて、七面の処を開ける。文芸欄のある処である。 朝日の灰の翻れるのを、机の向うへ吹き落しながら読む。顔はやはり晴々としている。 唐紙のあっちからは、はたきと箒・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・押丁が預托品の合札を取り上げて、代りに小刀を渡して、あらあらしく云った。「どうもお前はこの上もない下等な人間だな。たった一人の子を打ちに、ここからわざわざ帰って行く奴があるか。」 ツァウォツキイは黙っていた。それでも押丁がまた小刀を胸に・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・この体に旅人も首を傾けて見ていたが、やがて年を取ッた方がしずかに幕を取り上げて紋どころをよく見るとこれは実に間違いなく足利の物なので思わずも雀躍した,「見なされ。これは足利の定紋じゃ。はて心地よいわ」と言われて若いのもうなずいて、「・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・すると玉王の五歳の時、国の目代がこのことを聞いて、自分も子がないために、無理に取り上げて自分の手もとに置いた。七歳の時にはさらに阿波の国司がこのことを聞いて、目代から玉王を取り上げ、傍を離さず愛育したが、十歳の時、みかどがこれを御覧じて、殿・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
出典:青空文庫