・・・ 遠藤は椅子へ行くと、妙子の耳もとへ口をつけて、一生懸命に叫び立てました。が、妙子は眼をつぶったなり、何とも口を開きません。「御嬢さん。しっかりおしなさい。遠藤です」 妙子はやっと夢がさめたように、かすかな眼を開きました。「・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・ 叫びと共に彼れは疎藪の中に飛びこんだ。とげとげする触感が、寝る時のほか脱いだ事のない草鞋の底に二足三足感じられたと思うと、四足目は軟いむっちりした肉体を踏みつけた。彼れは思わずその足の力をぬこうとしたが、同時に狂暴な衝動に駈られて、満・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ 私はお米さんの、清く暖き膚を思いながら、雪にむせんで叫びました。「魔が妨げる、天狗の業だ――あの、尼さんか、怪しい隠士か。」大正十年四月 泉鏡花 「雪霊記事」
・・・彼ら無心の毛族も何らか感ずるところあると見え、残る牛も出る牛もいっせいに声を限りと叫び出した。その騒々しさは又自から牽手の心を興奮させる。自分は二頭の牝牛を引いて門を出た。腹部まで水に浸されて引出された乳牛は、どうされると思うのか、右往左往・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・唯、文学論としてよりは小生一個の希望――文学に対する註文を有体に云うと、今日の享楽主義又は耽美主義の底には、沈痛なる人生の叫びを蔵しているのを認めないではないが、何処かに浮気な態度があって昔の硯友社や根岸党と同一気脈を伝うるのを慊らず思って・・・ 内田魯庵 「二十五年間の文人の社会的地位の進歩」
・・・しかし神はモーセの祈願を聴きたまいしがごとくにダルガスの心の叫びをも聴きたまいました。黙示は今度は彼に臨まずして彼の子に臨みました、彼の長男をフレデリック・ダルガスといいました。彼は父の質を受けて善き植物学者でありました。彼は樅の成長につい・・・ 内村鑑三 「デンマルク国の話」
・・・そこへいくと、おまえたちや、海などは、生きているのだから、俺が打衝ってゆくと叫びもするし、また、戦いもする。俺は、じっとしていることはきらいだ。なんでも駆けまわっていたり、争ったり組みついたりすることが大好きなのだ。」 木の芽は、まだ地・・・ 小川未明 「明るき世界へ」
・・・と自分で叫びながら、漸く、向うの橋詰までくると、其処に白い着物を着た男が、一人立っていて盛に笑っているのだ、おかしな奴だと思って不図見ると、交番所の前に立っていた巡査だ、巡査は笑いながら「一体今何をしていたのか」と訊くから、何しろこんな、出・・・ 小山内薫 「今戸狐」
・・・実家へ帰る肚を決めていた事で、わずかに叫び出すのをこらえているようだった。うなだれて柳吉は、蝶子の出しゃ張り奴と肚の中で呟いたが、しかし、蝶子の気持は悪くとれなかった。草履は相当無理をしたらしく、戎橋「天狗」の印がはいっており、鼻緒は蛇の皮・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・ 今なら、あの白い手がたとえあの上で殺人を演じても、誰一人叫び出そうとはしないだろう」 私は寸時まえの拍手とざわめきとをあたかも夢のように思い浮かべた。それは私の耳にも目にもまだはっきり残っていた。あんなにざわめいていた人びとが今のこの・・・ 梶井基次郎 「器楽的幻覚」
出典:青空文庫