・・・と、鷹見が、「しかし樋口には何よりこの紐がうれしいのだろう、かいでみたまえ、どんなにおいがするか」「ばか言え、樋口じゃあるまいし」と、上田の声が少し高かったので、鸚鵡が一声高く「樋口さん」と叫びました。「このちくしょう?」と鷹見・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・彼は永遠の真理よりの命令的要素のうながしと、この同時代への本能愛の催しのために、常に衝き動かさるるが如くに、叫び、宣し、闘いつつ生きねばならなくなるのだ。倉皇として奔命し、迫害の中に、飢えと孤独を忍び、しかも真理のとげ難き嘆きと、共存同悲の・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・ 彼は、あの土をもり上げた底から、なお、叫び唸る声がひゞいて来るような気がした。狭い穴の中で、必死に、力いっぱいにのたうちまわっている、老人が、まだ、目に見えるようだった。彼は慄然とした。 日が経った。次の俸給日が来た。兵卒は聯隊の・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・供奉諸官、及び学校諸員はもとより若崎のあの夜の心の叫びを知ろうようは無かった。 しかし、天恩洪大で、かえって芸術の奥には幽眇不測なものがあることをご諒知下された。正直な若崎はその後しばしば大なるご用命を蒙り、その道における名誉を馳するを・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・ われ/\の十一月七日を勇敢に闘った同志は、そのなかを大声で何か叫びながら、連れて行かれた。俺だちはその声が遠くなり、聞えなくなる迄、足踏みをやめなかった。 出廷 寒い冬の朝、看守が覗きから眼だけを出して、「・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・この船は自分の腹を開けて、ここへ歌いながら叫びながら入り込んで来る人を入れてやって、それを黒い鉄の膝の上に載せて、無事に海の上へ連れ出して、余所の岸に運んで行ってまた吐き出すのである。 男等は立って見下している。ここには物音が聞える。為・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・ と叫び、ひきずりおろしたところへ、私たちが駈けつけたというわけでしたが、その、署長の、馬鹿! という声と共に私たちは立ち上り、思わず顔を見合せ、その時の、嫁のまるでもう余念なさそうに首をかしげて馬小屋の物音に耳を澄ました恰好は、いやもう、・・・ 太宰治 「嘘」
・・・金州の戦場では、機関銃の死の叫びのただ中を地に伏しつつ、勇ましく進んだ。戦友の血に塗れた姿に胸を撲ったこともないではないが、これも国のためだ、名誉だと思った。けれど人の血の流れたのは自分の血の流れたのではない。死と相面しては、いかなる勇者も・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・ただ他の場合と少しちがうことは、この場合においては作者自身が被試験物質ないしは動物となって、試験管なり坩堝なり檻なりの中に飛び込んで焼かれいじめられてその経験を歌い叫び記録するのである。あるいはその被試験者の友人なり、また場合によっては百年・・・ 寺田寅彦 「科学と文学」
・・・ 娘は、金切声で叫びながら、断髪頭を振り向けて、善ニョムさんを睨んだ。「ど、どうしてくれる、この麦を!」 善ニョムさんは、その断髪娘が、誰であるかを見極めるほどの思慮を失っていた。「――さぁこん畜生、立たねえか、そらおめえの臀の・・・ 徳永直 「麦の芽」
出典:青空文庫