・・・乗客が構わずそれをば踏み付けて行こうとするので、此度は女房が死物狂いに叫び出した。口癖になった車掌は黄い声で、「お忘れものの御在いませんように。」と注意したが、見るから汚いおしめの有様。といって黙って打捨てても置かれず、詮方なしに「おあ・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・あるときは罪々と叫び、あるときは王妃――ギニヴィア――シャロットという。隠士が心を込むる草の香りも、煮えたる頭には一点の涼気を吹かず。……」「枕辺にわれあらば」と少女は思う。「一夜の後たぎりたる脳の漸く平らぎて、静かなる昔の影のちら・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・及び鴉等は鳴き叫び風を切りて町へ飛び行くまもなく雪も降り来らむ――今尚、家郷あるものは幸福なるかな。 の初聯で始まる「寂寥」の如き詩は、その情感の深く悲痛なることに於て、他に全く類を見ないニイチェ独特の名・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・ 私は叫びながら飛びついた。「待て」とその男は呻くように云って、私の両手を握った。私はその手を振り切って、奴の横っ面を殴った。だが私の手が奴の横っ面へ届かない先に私の耳がガーンと鳴った、私はヨロヨロした。「ヨシ、ごろつき奴、死ぬ・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・これは放免になった歓びの叫びであった。この時の嬉しさは到底いう事も出来ぬ。自分は人力車で神戸の病院へ行くつもりであったから、肩には革包をかけ、右の手にはかなり重い行李を提げ、左の手は刀を杖について、喘ぎ喘ぎそろそろと歩行いて見たが、歩行くた・・・ 正岡子規 「病」
・・・そしていきなり私にぶっつかりびっくりして飛びのきながら一人が空を指して叫びました。「ごらん、そら、インドラの網を。」 私は空を見ました。いまはすっかり青ぞらに変ったその天頂から四方の青白い天末までいちめんはられたインドラのスペクトル・・・ 宮沢賢治 「インドラの網」
・・・途端、けたたましい叫び声をあげて廊下の鸚哥があばれた。「餌がないのかしら」 ふき子が妹に訊いた。「百代さん、あなたけさやってくれた?」 百代は聞えないのか返事しなかった。「よし、僕が見てやる」 篤介が横とびに廊下へ出・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・そのうち臓腑が煮え返るようになって、獣めいた叫びが口から出ようとするのを、歯を食いしばってこらえた。たちまち正道は縛られた縄が解けたように垣のうちへ駆け込んだ。そして足には粟の穂を踏み散らしつつ、女の前に俯伏した。右の手には守本尊を捧げ持っ・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
・・・と叫びながら、秋三の家の裏口から馳け込んだ。 お霜の叫びに納戸からお留が出て来た。秋三は藁小屋から飛び出て来た。そして二人が安次の小屋へ馳けて行くと、お霜はそのまま自分の家へ馳けて帰って勘次に云った。「お前えらいこっちゃ。安次が死に・・・ 横光利一 「南北」
・・・だから数万の人々はこの正月に明治神宮を参拝して、摂政宮殿下の万歳を叫び、或いは安泰を祈り、それでもって右のような心持ちを表現した。 警衛ということはそういうわけで実現ができない。それでは街頭の宣伝はどうであろうか。これまで人前で演説など・・・ 和辻哲郎 「蝸牛の角」
出典:青空文庫