・・・古又嘗テ吉野山ノ種ヲ移植スト云フ。毎歳立春ノ後五六旬ヲ開花ノ候トナス。」としてある。そして桜花満開の時の光景を叙しては、「若シ夫レ盛花爛漫ノ候ニハ則全山弥望スレバ恰是一団ノ紅雲ナリ。春風駘蕩、芳花繽紛トシテ紅靄崖ヲ擁シ、観音ノ台ハ正ニ雲外ニ・・・ 永井荷風 「上野」
・・・しかし京師および吉野山の花よりも優っていると言ったものは恐らく松崎慊堂のみであろう。慊堂は昌平黌の教授で弘化元年に歿した事は識者の知る所。その略伝の如きはここに言わない。 隅田川を書するに江戸の文人は多く墨水または墨江の文字を用いている・・・ 永井荷風 「向嶋」
・・・強いて何かの聯想を思い出させれば、やはり名所の雪を描いた古い錦絵か、然らずば、芝居の舞台で見る「吉野山」か「水滸伝」の如き場面であろう。けれども、それらの錦絵も芝居の書割も決して完全にこの珍らしい貴重なる東洋固有の風景を写しているとは思えな・・・ 永井荷風 「霊廟」
出典:青空文庫