・・・それと同時に、ブーンといって、バイオリンの糸の鳴り音がきこえたのであります。 少年は、はっと心に思いました。なぜならその音色は、きき覚えのあるなつかしい音色でありましたからです。 もうすこしのことに、気づかずに通り過ぎようとしました・・・ 小川未明 「海のかなた」
・・・ほっとしたが、同時に夜が心配になりだした。夜になれば、また雨戸が閉って、あの重く濁った空気を一晩中吸わねばならぬのかと思うと、痩せた胸のあたりがなんとなく心細い。たまらなかった。 夜雨戸を閉めるのはいずれ女中の役目だろう故、まえもってそ・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・ 併し食わなければならぬという事が、人間から好い感興性を奪い去ると同時に悪い感興性の弾力をも奪い取って了うのだ。そして穴のあいたゴム鞠にして了うのだ――「そうだ、感興性を失った芸術家の生活なんて、それは百姓よりも車夫よりもまたもっと悪い・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・これと同時に、脚や足の甲がむくむくと浮腫みを増して来ました。そして、病人は肝臓がはれ出して痛むと言います。これは医師が早くから気にしていたことで、その肝臓が痛み出しては、いよいよこれでお仕舞だと思いましたが、注射をしてからは少し痛みが楽に成・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・彼らはは入って来ると同時にウエイトレスの方へ色っぽい眼つきを送りながら青年達の横のテーブルへ坐った。彼らの眼は一度でも青年達の方を見るのでもなければ、お互いに見交わすというのでもなく、絶えず笑顔を作って女の方へ向いていた。「ポーリンさん・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・ 元来志村は自分よりか歳も兄、級も一年上であったが、自分は学力優等というので自分のいる級と志村のいる級とを同時にやるべく校長から特別の処置をせられるので自然志村は自分の競争者となっていた。 然るに全校の人気、校長教員を始め何百の生徒・・・ 国木田独歩 「画の悲み」
・・・健康なる青年にあってはその性慾の目ざめと同時に、その倫理的感覚が呼びさまされ、恋愛と正義とがひとつに融かされて要請されるものである。 さてかような倫理的要請は必ず倫理学という学に向かうとは限らない。一般に科学というものを知らなかった上古・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・ 必死の、鋭い、号泣と叫喚が同時に、老人の全身から溢れた。それは、圧迫せられた意気の揚らない老人が発する声とはまるで反対な、力のある、反抗的な声だった。彼は「何をするのだ! 俺がどうして斬られるようなことをしたんだ!」と、叫んでいるよう・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・その別に取立てて云うほどの何があるでも無い眼を見て、初めて夫がホントに帰って来たような気がし、そしてまた自分がこの人の家内であり、半身であると無意識的に感じると同時に、吾が身が夫の身のまわりに附いてまわって夫を扱い、衣類を着換えさせてやった・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・今後、幾百年かの星霜をへて、文明はますます進歩し、物質的には公衆衛生の知識がいよいよ発達し、一切の公共の設備が安固なのはもとより、各個人の衣食住もきわめて高等・完全の域に達すると同時に、精神的にもつねに平和・安楽であって、種々の憂悲・苦労の・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
出典:青空文庫