・・・のために設けられたる料理屋の座敷に上っては、掛物と称する絵画と置物と称する彫刻品を置いた床の間に、泥だらけの外套を投げ出し、掃き清めたる小庭に巻煙草の吸殻を捨て、畳の上に焼け焦しをなし、火鉢の灰に啖を吐くなぞ、一挙一動いささかも居室、家具、・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・「珊瑚の枝は海の底、薬を飲んで毒を吐く軽薄の児」と言いかけて吾に帰りたる髯が「それそれ。合奏より夢の続きが肝心じゃ。――画から抜けだした女の顔は……」とばかりで口ごもる。「描けども成らず、描けども成らず」と丸き男は調子をとりて軽く銀・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・死体が息を吐くなんて――だがどうも息らしかった。フー、フーと極めて微かに、私は幾度も耳のせいか、神経のせいにして見たが、「死骸が溜息をついてる」とその通りの言葉で私は感じたものだ。と同時に腹ん中の一切の道具が咽喉へ向って逆流するような感じに・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・ 船底に引きあげられたイイダコは怒って黒い汁を吐く。内側に向かっても放射するのか、全身が黒くなる。そして、八本足で立って歩きながら逃げようとする。イイダコ釣りは面白いので、私はヒマを見つけるとときどき試みるが、一日に六十匹も引きあげたこ・・・ 火野葦平 「ゲテ魚好き」
・・・と、吉里は西宮をつくづく視て、うつむいて溜息を吐く。「座敷の花魁は遅うございますことね。ちょいと見て参りますよ」と、お梅は次の間で鉄瓶に水を加す音をさせて出て行ッた。「西宮さん」と、吉里は声に力を入れて、「私ゃどうしたらいいでしょう・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・かりに今日、坊間の一男子が奇言を吐くか、または講談師の席上に弁じたる一論が、偶然にも古聖賢の旨にかなうとするも、天下にその言論を信ずる者なかるべし。如何となれば、その言の尊からざるに非ざれども、徳義上にその人を信ずるに足らざればなり。 ・・・ 福沢諭吉 「読倫理教科書」
・・・との浜千さとの目路に塵をなみすずしさ広き砂上の月薔薇羽ならす蜂あたたかに見なさるる窓をうづめて咲くさうびかな題しらず雲ならで通はぬ峰の石陰に神世のにほひ吐く草花歌会の様よめる中に・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・大学士はにこにこ笑い立ちどまって巻煙草を出しマッチを擦って煙を吐く。それからわざと顔をしかめごくおうように大股に岬をまわって行ったのだ。ところがどうだ名高い楢ノ木大学士が釘付けにされたように立ちどまった。・・・ 宮沢賢治 「楢ノ木大学士の野宿」
・・・しかし、私は弱音を吐くことは許されない。「ここへ来るとたれかにいったの?」「いいえ、こっそり畑から来ました」「――何にもありはしまいが、じゃあこちらで泊っていらっしゃい」 十六の女中は、背後を見い見い、「おらあ……雨戸し・・・ 宮本百合子 「田舎風なヒューモレスク」
・・・が途切れたような体であッたが、しばらくして老女はきッと思いついた体で傍の匕首を手に取り上げ、「忍藻、和女の物思いも道理じゃが……この母とていとう心にはかかるが……さりとて、こやそのように、忍藻太息吐くようでは、太息のみ吐いておるようでは・・・ 山田美妙 「武蔵野」
出典:青空文庫