・・・裾の方は屏風で囲われ、頭の方の障子の破隙から吹き込む夜風は、油の尽きかかッた行燈の火を煽ッている。「おお、寒い寒い」と、声も戦いながら入ッて来て、夜具の中へ潜り込み、抱巻の袖に手を通し火鉢を引き寄せて両手を翳したのは、富沢町の古着屋美濃・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ 女は男の心の中に自分の毒を吹き込む様にホッと深い息を吐いた。 二人の間に長い沈黙がつづいた。二人の心ははなればなれに手ん手に勝手なことを考えて居た。「私はもう帰る」 男は思い出した様に立ち上って上んまえをひっぱった。「・・・ 宮本百合子 「お女郎蜘蛛」
・・・ 足の裏の千切れて仕舞いそうなのを堪えて探り足で廊下の曲り角まで行くと右側の無双窓の閉め忘れた所から吹き込む夜の風が切る様に私に打ちかかって、止め様としても止まらない胴震いと歯鳴りに私はウワワワワと獣の様な声を出して仕舞った。 もう・・・ 宮本百合子 「追憶」
・・・どこかの戸の隙間から風が吹き込む音ででもあるだろうか。その断えては続く工合が、譬えば人がゆっくり息をするようである。「お松さん。ちょいとお待ちよ。」お花はお松の袖を控えて、自分は足を止めた。「なんだねえ。出し抜けに袖にぶら下がるのだ・・・ 森鴎外 「心中」
・・・垣根に吹き込む山おろし、それも三郎たちの声に聞える。ボーン悩と鳴る遠寺の鐘、それも無常の兆かと思われる。 人に見られて、物思いに沈んでいることを悟られまいと思って、それから忍藻は手近にある古今集を取っていい加減なところを開き、それへ向っ・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・そこでは吐き出された炭酸瓦斯が気圧を造り、塵埃を吹き込む東風とチブスと工廠の煙ばかりが自由であった。そこには植物がなかった。集るものは瓦と黴菌と空壜と、市場の売れ残った品物と労働者と売春婦と鼠とだ。「俺は何事を考えねばならぬのか。」と彼・・・ 横光利一 「街の底」
・・・烈な好学心をひしひしと我々の胸に感じさせ、我々の学問への熱情を知らず知らずに煽り立てるようなものであったが、それに対して岡倉先生の講義は、同じく熱烈ではあるがしかし好学心ではなくして芸術への愛を我々に吹き込むようなものであった。もちろん先生・・・ 和辻哲郎 「岡倉先生の思い出」
出典:青空文庫