・・・ 遠藤が次の間へ踏みこもうとすると、咄嗟に印度人の婆さんは、その戸口に立ち塞がりました。「ここは私の家だよ。見ず知らずのお前さんなんぞに、奥へはいられてたまるものか」「退け。退かないと射殺すぞ」 遠藤はピストルを挙げました。・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・――左近はこう咄嗟に決心すると、身仕度をする間も惜しいように、編笠をかなぐり捨てるが早いか、「瀬沼兵衛、加納求馬が兄分、津崎左近が助太刀覚えたか。」と呼びかけながら、刀を抜き放って飛びかかった。が、相手は編笠をかぶったまま、騒ぐ気色もなく左・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・――彼は咄嗟にそう思った。が、もうその時は小鼻の上に涙のたまるのを感じていた。「莫迦だね。」 母はかすかに呟いたまま、疲れたようにまた眼をつぶった。 顔を赤くした洋一は、看護婦の見る眼を恥じながら、すごすご茶の間へ帰って来た。帰・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
雌蜘蛛は真夏の日の光を浴びたまま、紅い庚申薔薇の花の底に、じっと何か考えていた。 すると空に翅音がして、たちまち一匹の蜜蜂が、なぐれるように薔薇の花へ下りた。蜘蛛は咄嗟に眼を挙げた。ひっそりした真昼の空気の中には、まだ・・・ 芥川竜之介 「女」
・・・が、近づきになって間もない私も、子爵の交際嫌いな性質は、以前からよく承知していたから、咄嗟の間、側へ行って挨拶したものかどうかを決しかねた。すると本多子爵は、私の足音が耳にはいったものと見えて、徐にこちらを振返ったが、やがてその半白な髭に掩・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・フランシスは激しい心の動揺から咄嗟の間に立ちなおっていた。「そんなに驚かないでもいい」 そういって静かに眼を閉じた。 クララは自分で知らなかった自分の秘密をその時フランシスによって甫めて知った。長い間の不思議な心の迷いをクララは・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・ 皆、咄嗟の間、ですが、その、廻っている乳が、ふわふわと浮いて、滑らかに白く、一列に並んだように思う…… と莞爾していった、お雪さんの言が、逆だから、(お遁げ、危と、いうように聞えて、その白い菩薩の列の、一番框へ近いのに――導か・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・挨拶は済ましたが、咄嗟のその早さに、でっぷり漢と女は、衣を引掛ける間もなかったろう……あの裸体のまま、井戸の前を、青すすきに、白く摺れて、人の姿の怪しい蝶に似て、すっと出た。 その光景は、地獄か、極楽か、覚束ない。「あなた……雀さん・・・ 泉鏡花 「二、三羽――十二、三羽」
・・・ その唇が、眉とともに歪んだと思うと、はらりと薫って、胸に冷り、円髷の手巾の落ちかかる、一重だけは隔てたが、お町の両の手が、咄嗟に外套の袖をしごくばかりに引掴んで、肩と袖で取縋った。片褄の襦袢が散って、山茶花のようにこぼれた。 この・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・これは、一秒に砂一粒、幾億万年の後には、この大陸を浸し尽そうとする処の水で、いまも、瞬間の後も、咄嗟のさきも、正に然なすべく働いて居るのであるが、自分は余り大陸の一端が浪のために喰欠かれることの疾いのを、心細く感ずるばかりであった。 妙・・・ 泉鏡花 「星あかり」
出典:青空文庫