・・・暗い敷台の上には老師の帰りを待っているかのように革のスリッパが内へ向けて揃えられてあり、下駄箱の上には下駄が載って、白い籐のステッキなども見えたが、私の二度三度の強い咳払いにも、さらに内からは反響がなかった。お留守なのかしら?……そうも思っ・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・昔自分に親しかったある老人は機嫌が悪いと何とも云えない変な咳払いをしては、煙管の雁首で灰吹をなぐり付けるので、灰吹の頂上がいつも不規則な日本アルプス形の凸凹を示していた。そればかりでなく煙管の吸口をガリガリ噛むので銀の吸口が扁たくひしゃげて・・・ 寺田寅彦 「喫煙四十年」
・・・緊張した時には咳払いをしなければ声が出にくいのは誰も知る通りである。いつかベルリンで見た歌劇で幕があくとタンホイゼルが女神の膝を枕にして寝ている、そして Zu viel! zu viel! と歌いながら起き上がる時に咽喉がつかえて妙な声にな・・・ 寺田寅彦 「電車と風呂」
・・・兄さん自分から好んで、』 強い咳払いを一つ、態と三つまで続けて、其女の方の言葉を紛らそうとしたのは、其兄上らしい三十近い兵士さんでした。それで、其兵士の顔には、他の人への羞しい様な色が溢れて、妹さんを見据えてお居での眼は、何様に迷惑そう・・・ 広津柳浪 「昇降場」
・・・彼は困って咳払いした。千代は鏡の中でぱっと眼を移し、重って写っている彼の顔に向って華やかに微笑みかけそして、ゆっくりどきながら云った。「まあ、御免遊ばせ」 そしてすっと開きから出て行った。 又、彼女は、食事の前後以外には、どんな・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・ ドアのところで、咳払いがする。自分は母のそばをはなれながら、猶、じっと目を放さず、「わかった?」 母親は、むっとした顔でそっぽを向き瞬きを繁くしている。―― やがて袖をさぐってハンケチを出しながら泣き出した。しかしそれは、・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・と云って咳払いをした。言葉に出すのがいやでなほ子はそう云ったのであったが、本当は訳があった。総子の顔を見ているうちに、なほ子は或る夢を思い出した。それは、歯の抜け落ちる夢であった。何かしていると、上歯がみんな一時に生えている順にずり抜け・・・ 宮本百合子 「白い蚊帳」
・・・ 不安だと云うのでもなく、可哀そうだと云うのでもなく、家中のどよめきに連れて只ソワソワして居た私は、深く夜着の中にもぐって居ながら、遠くの足音にも耳をすませたり、一寸人が近くまで来ると、咳払いをしたりわざと欠伸をしたりして専ら気の毒な自・・・ 宮本百合子 「追憶」
・・・とわざと大きな咳払いをして、おばあさんが振向く間もなくどこかへゴソゴソ隠れてしまった。 手元が見えなくなるまで、真黒になって働いていた年寄りは、食事をすませると火鉢の傍で、煮がらしの番茶を飲んでいた。 いつともなく禰宜様宮田の丁寧な・・・ 宮本百合子 「禰宜様宮田」
・・・ すこし改ったような咳払いをして幸治が外から声をかけた。「だめよ、今入っちゃ。まだ猫に紙袋よ」 笑いながら桃子が大きい声を出した。「ほう」 また咳払いをする声がする。「はい、どうぞ」「やがて尚子が自分から幸治のた・・・ 宮本百合子 「二人いるとき」
出典:青空文庫