・・・「哀れっぽい声を出したって駄目だよ。また君、金のことだろう?」「いいえ、金のことじゃありません。ただわたしの友だちに会わせたい女があるんですが、……」 その声はどうもKらしくなかった。のみならず誰か僕のことを心配してくれる人らし・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・赤坊は力のない哀れな声で泣きつづけた。仁右衛門は腸をむしられるようだった。それでも泣いている間はまだよかった。赤坊が泣きやんで大きな眼を引つらしたまま瞬きもしなくなると、仁右衛門はおぞましくも拝むような眼で笠井を見守った。小屋の中は人いきれ・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・と驚いたが、抱く手の濡れるほど哀れ冷汗びっしょりで、身を揉んで逃げようとするので、さては私だという見境ももうなくなったと、気がついて悲しくなった。「しっかりしておくれ、お米さん、しっかりしておくれよ、ねえ。」 お米はただ切なそうに、・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・普通な人間の親父なる彼が境涯を哀れに思うなどは、出過ぎた料簡じゃあるまいか。まずまず寝ることだと、予は雨戸を閉めようとして、外の空気の爽かさを感じ、又暫く戸口に立った。 風は和いだ。曇っては居るが月が上ったと見え、雲がほんのり白らんで、・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・ 妻は跡に残った新芸者――色は白いが、お多福――からその可哀そうな身の上ばなしを聴き、吉弥に対する憎みの反動として、その哀れな境遇に同情を寄せた。東京からわざわざやって来て、主人には気に入りそうな様子が見えないのであった。 この女か・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・しかし、年寄り夫婦はそれを見ても、いじらしいとも、哀れとも、思わなかったのであります。 月の明るい晩のことであります。娘は、独り波の音を聞きながら、身の行く末を思うて悲しんでいました。波の音を聞いていると、なんとなく、遠くの方で、自分を・・・ 小川未明 「赤いろうそくと人魚」
・・・私は見慣れた千草の風呂敷包を背負って、前には女房が背負うことに決っていた白金巾の包を片手に提げて、髪毛の薄い素頭を秋の夕日に照されながら、独り町から帰ってくる姿を哀れと見た。で、女房はさすがに怖がって外へもなるべく出ないようにしている。銭占・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・もっとも同情を惹くといっても、哀れっぽく持ちだすなど気性からいってもできなかった。どうせ不景気な話だから、いっそ景気よく語ってやりましょう、子供のころでおぼえもなし、空想をまじえた創作で語る以上、できるだけおもしろおかしく脚色してやりましょ・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・思わずも足を駐めて視ると、何か哀れな悲鳴を揚げている血塗の白い物を皆佇立てまじりまじり視ている光景。何かと思えば、それは可愛らしい小犬で、鉄道馬車に敷かれて、今の俺の身で死にかかっているのだ。すると、何処からか番人が出て来て、見物を押分け、・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・それにつけても、呪われた運命の子こそ哀れだ……悩ましさと自責の念から、忘れかけていた脊部肋間の神経痛が、また疼きだした。…… こうした生活が、ちょうどまる二カ月も続いているのだった。毎日午後の三四時ごろに起きては十二時近くまで寝床の中で・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
出典:青空文庫