・・・ 天井裏の蕃椒は真赤だが、薄暗い納戸から、いぼ尻まきの顔を出して、「その柿かね。へい、食べられましない。」「はあ?」「まだ渋が抜けねえだでね。」「はあ、ではいつ頃食べられます。」 きく奴も、聞く奴だが、「早うて、・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・ これから、名を由之助という小山判事は、埃も立たない秋の空は水のように澄渡って、あちらこちら蕎麦の茎の西日の色、真赤な蕃椒が一団々々ある中へ、口にしたその葉巻の紫の煙を軽く吹き乱しながら、田圃道を楽しそう。 その胸の中もまた察すべき・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・ ふと、軒に乾した煙草の葉と、蕃椒の間に、山駕籠の煤けたのが一挺掛った藁家を見て、朽縁へどうと掛けた。「小父さんもう歩行けない。見なさる通りの書生坊で、相当、お駄賃もあげられないけれど、中の河内まで何とかして駕籠の都合は出来ないでしょう・・・ 泉鏡花 「栃の実」
・・・と片手に猪口を取りながら、黒天鵝絨の蒲団の上に、萩、菖蒲、桜、牡丹の合戦を、どろんとした目で見据えていた、大島揃、大胡坐の熊沢が、ぎょろりと平四郎を見向いて言うと、笑いの虫は蕃椒を食ったように、赤くなるまで赫と競勢って、「うはははは、う・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・いくら好きだって、蕃椒では飲めないよ。」 と言った。 市場を出た処の、乾物屋と思う軒に、真紅な蕃椒が夥多しい。……新開ながら老舗と見える。わかめ、あらめ、ひじきなど、磯の香も芬とした。が、それが時雨でも誘いそうに、薄暗い店の天井は、・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・指で挟んだ唐辛子でも構わない。――」 と、たそがれの立籠めて一際漆のような板敷を、お米の白い足袋の伝う時、唆かして口説いた。北辰妙見菩薩を拝んで、客殿へ退く間であったが。 水をたっぷりと注して、ちょっと口で吸って、莟の唇をぽッつり黒・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・ 馴れぬ風土の寒風はひとしおさすらいの身に沁み渡り、うたた脾肉の歎に耐えないのであったが、これも身から出た錆と思えば、落魄の身の誰を怨まん者もなく、南京虫と虱に悩まされ、濁酒と唐辛子を舐めずりながら、温突から温突へと放浪した。 しか・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・たい、もっともっと苦しみたい、世界中の弱き女性の、私は苦悩の選手です、などすこし異様のことさえ口走り、それでも母の如きお慈悲の笑顔わすれず、きゅっと抓んだしんこ細工のような小さい鼻の尖端、涙からまって唐辛子のように真赤に燃え、絨毯のうえをの・・・ 太宰治 「創生記」
・・・村外れの茶店で昼飯を食った時に店先で一人の汚い乞食婆さんが、うどんの上に唐辛子の粉を真赤になるほど振りかけたのを、立ちながらうまそうに食っていた姿が非常に鮮明に記録されている。こういうのはおそらくその後何かの機会に何遍となく同じ記憶の復習を・・・ 寺田寅彦 「二つの正月」
・・・ 納豆屋の「ナットナットー、ナット、七色唐辛子」という声もこの界隈では近ごろさっぱり聞かれなくなった。そのかわりに台所へのそのそ黙ってはいって来て全く散文的に売りつけることになったようである。「豆やふきまめー」も振鈴の音ばかりになっ・・・ 寺田寅彦 「物売りの声」
出典:青空文庫