・・・ そこで、蛤が貝を開いて、「善光寺様、お開帳。」とこう言うのである。 鉈豆煙管を噛むように啣えながら、枝を透かして仰ぐと、雲の搦んだ暗い梢は、ちらちらと、今も紫の藤が咲くか、と見える。 三「――あすこ・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・更に突飛なのは、六十のお婆さんまでが牛に牽かれて善光寺詣りで娘と一緒にダンスの稽古に出掛け、お爨どんまでが夜業の雑巾刺を止めにして坊ちゃんやお嬢さんを先生に「イット、イズ、エ、ドッグ」を初めた。 いよいよ出でて益々突飛なるは新学の林大学・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・を装って、内に入ってその晩は、事なく寝たが、就中胆を冷したというのは、或夏の夜のこと、夫婦が寝ぞべりながら、二人して茶の間で、都新聞の三面小説を読んでいると、その小説の挿絵が、呀という間に、例の死霊が善光寺に詣る絵と変って、その途端、女房は・・・ 小山内薫 「因果」
・・・「日光や善光寺さんイ連れて行ってくれりゃえいんじゃがのう。」「それよりぁ、うらあ浅草の観音さんへ参りたいんじゃ。……東京イ来てもう五十日からになるのに、まだ天子さんのお通りになる橋も拝見に行っとらんのじゃないけ。」 両人は所在な・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
・・・それで自分は小高い山の上にある長野の測候所を出た。善光寺から七八町向うの質屋の壁は白く日をうけた。庭の内も今は草木の盛な時で、柱に倚凭って眺めると、新緑の香に圧されるような心地がする。熱い空気に蒸される林檎の可憐らしい花、その周囲を飛ぶ蜜蜂・・・ 島崎藤村 「朝飯」
・・・ 部屋へはいると、善光寺助七が、部屋のまんなかに、あぐらをかいて坐っていた。青年と顔を見合せ、善光寺は、たちまち卑屈に、ひひと笑って、「あなたも、おどろいたでしょう? おれだって、まさに、腰を抜かしちゃった。さちよ君はね、いつでも、・・・ 太宰治 「火の鳥」
・・・を喰うて生きて居るというような浅ましい境涯であった、しかるに八十八人目の姨を喰うてしもうた時ふと夕方の一番星の光を見て悟る所があって、犬の分際で人間を喰うというのは罪の深い事だと気が付いた、そこで直様善光寺へ駈けつけて、段々今までの罪を懺悔・・・ 正岡子規 「犬」
・・・軽井沢に一泊して善光寺に参詣してそれから伏見山まで来て一泊した。これは松本街道なのである。翌日猿が馬場という峠にかかって来ると、何にしろ呼吸病にかかっている余には苦しい事いうまでもない。少しずつ登ってようよう半腹に来たと思う時分に、路の傍に・・・ 正岡子規 「くだもの」
・・・ すると父が母もまだ伊勢詣りさえしないのだし祖母だって伊勢詣り一ぺんとここらの観音巡り一ぺんしただけこの十何年死ぬまでに善光寺へお詣りしたいとそればかり云っているのだ、ことに去年からのここら全体の旱魃でいま外へ遊んで歩くなんてことはとな・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・その八百名のほかにも、襟に黄色い菊飾のしるしをつけたような善光寺詣りの連中がのぼって来ているだろうのに、山々の見晴しはどこまでも静かで、暖かで、遠い河の細い燦めきまで、紅葉した桜の梢の下に展けている。 ゆうべ、八時というのは、長野の・・・ 宮本百合子 「上林からの手紙」
出典:青空文庫