・・・護憲運動のあった時などは善良なる東京市民のために袋叩きにされているのですよ。ただ山の手の巡回中、稀にピアノの音でもすると、その家の外に佇んだまま、はかない幸福を夢みているのですよ。 主筆 それじゃ折角の小説は…… 保吉 まあ、お聞き・・・ 芥川竜之介 「或恋愛小説」
・・・わが心霊界はおもむろに薄暮に沈まんとす。予は諸君と訣別すべし。さらば。諸君。さらば。わが善良なる諸君。 ホップ夫人は最後の言葉とともにふたたび急劇に覚醒したり。我ら十七名の会員はこの問答の真なりしことを上天の神に誓って保証せんとす。(な・・・ 芥川竜之介 「河童」
・・・こう云う自分たちの笑い声がどれほど善良な毛利先生につらかったか、――現に自分ですら今日その刻薄な響を想起すると、思わず耳を蔽いたくなる事は一再でない。 それでもなお毛利先生は、休憩時間の喇叭が鳴り渡るまで、勇敢に訳読を続けて行った。そう・・・ 芥川竜之介 「毛利先生」
・・・「神、その独子、聖霊及び基督の御弟子の頭なる法皇の御許によって、末世の罪人、神の召によって人を喜ばす軽業師なるフランシスが善良なアッシジの市民に告げる。フランシスは今日教友のレオに堂母で説教するようにといった。レオは神を語るだけの弁才を・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・と言っている、非常に無邪気な善良な笑い方をした。性質の純な所が、外面的の修養などが剥がれて現われたものである。 母の父は南部すなわち盛岡藩の江戸留守居役で、母は九州の血を持った人であった。その間に生まれた母であるから、国籍は北にあっても・・・ 有島武郎 「私の父と母」
・・・子供の為めには自分の凡てを犠牲にして尽すという愛の一面に、自分の子供を真直に、正直に、善良に育てゝ行くという厳しい、鋭い眼がある。この二つの感情から結ばれた母の愛より大きなものはないと思う。しかし世の中には子供に対して責任感の薄い母も多い。・・・ 小川未明 「愛に就ての問題」
・・・木は、そんなことをされても、だまっていましたが、木を愛する他の善良な生徒たちは、けっして、だまってはいませんでした。「君、そんないたずらをするものでないよ。木が、かわいそうじゃないか。」と、いましめました。そう注意されると、たいていの子・・・ 小川未明 「学校の桜の木」
・・・ 善良な理髪師の如く、善良な靴匠の如く、私は、また真実な一文筆者として使命を果たしたいと思っています。幸に、男子にとって、厄年である四十三も、無事に過ぎたことを祝福します。――十三年十二月――・・・ 小川未明 「机前に空しく過ぐ」
・・・彼等は家庭に帰れば皆善良なる市井人であり、職場では猫の口が喋る如く民主主義を唱え、杓子の耳が聴く如くそれに耳を傾けている筈だが、しかし、人間を愛することを忘れて、いかなる民主主義者があろうか。 復員者に冷たく当りたがる人々の気持はむろん・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・峻は善良な長い顔の先に短い二本の触覚を持った、そう思えばいかにも神主めいたばったが、女の子に後脚を持たれて身動きのならないままに米をつくその恰好が呑気なものに思い浮かんだ。 女の子が追いかける草のなかを、ばったは二本の脚を伸ばし、日の光・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
出典:青空文庫