・・・驚いて見ていると、この暴君はまもなくこの哀れな俘虜を釈放して、そうしてあたかも何事も起こらなかったように悠々とその固有の雌鳥の一メートル以内の領域に泳ぎついて行った。善良なるその妻もまたあたかもこの世の中に何事も起こらなかったかのように平静・・・ 寺田寅彦 「あひると猿」
・・・そうしてまず、始めから終わりまで見た後の自分の印象からいうと、それほどいやで見ていられないような場面や、退屈で腹の立つような長町場もない。善良なる一日本人として時々は愉快な笑いを誘われるところもある。これをあの実に不愉快にして愚劣なる「洛陽・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・わたくしの健康、性癖、境遇、それらのものを思返して見ると、わたくしの身は世間一般の人のように、善良なる家庭の父となり得られるはずはないようである。 多病の親から多病ならざる子孫の生れいづる事はまず稀であろう。病患は人生最大の不幸であると・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・ 庄太郎は町内一の好男子で、至極善良な正直者である。ただ一つの道楽がある。パナマの帽子を被って、夕方になると水菓子屋の店先へ腰をかけて、往来の女の顔を眺めている。そうしてしきりに感心している。そのほかにはこれと云うほどの特色もない。・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・そしてそれ等の振舞が呪わるべきであることを語って、私は自分の善良なる性質を示して彼女に誇りたかった。 彼女はやがて小さな声で答えた。「私から何か種々の事が聞きたいの? 私は今話すのが苦しいんだけれど、もしあんたが外の事をしないのなら・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・「こんな調子だと、善良な人民を監獄に入れて、罪人共を外に出さなけりゃ、取締りの法がつかない」と、「天神様」たちは思わない訳には行かなかった。 だが、青年団、消防組の応援による、県警察部の活動も、足跡ほどの証拠をも上げることが出来なか・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・が、いざ結婚というところまで進んで、腐敗した政治界、善良ではあるがごく世間並なその青年の結婚観に一致出来ないことを感じ、苦しむ。アンネットの裡には、不羈な自由精神があって、彼女の心臓の力で殺すことが出来ない。然し彼女の成熟した女性は愛を欲し・・・ 宮本百合子 「アンネット」
・・・ロマンティックな要素、そしてその反面に根をはっている封建風なもの、この両者はそれぞれ独自なニュアンスをなして、云わばこの卓抜な二人の作家の正直さ、善良さ、真摯さの故に矛盾をも明かに示しつつ、生涯の実生活と作品とを綾どっている。 今日の日・・・ 宮本百合子 「鴎外・芥川・菊池の歴史小説」
・・・七 私は才能乏しくしてしかも善良なる人が、宿命として自分に押しつけられている自分の性質を、呪い苦しんでいるのに出逢うごとに、わけもなく涙ぐましい心持ちになります。ことに彼が沈黙と憂愁との内に静かにうなだれているのを見ると、じ・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
・・・彼の職務は或る作品がいかなる芸術的価値を持つかを定めることではなく、ただそれが公開される場合に公衆に対していかなる影響を及ぼすかを精確に判定し、その影響が社会の秩序を紊乱し善良な風俗を壊乱するようなものであった場合に、その公開を禁止すること・・・ 和辻哲郎 「蝸牛の角」
出典:青空文庫