・・・ぐっしゃり一まとめに土塊のように置いてあった。「これが奈々ちゃんの着物だね」「あァ」 ふたりは力ない声で答えた。絣の単物に、メリンスの赤縞の西洋前掛けである。自分はこれを見て、また強く亡き人の俤を思い出さずにいられなかった。・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・灰色の土塊が長く幾畦にもなっているかと思うと、急にそれが動きだしたので、よく見ると羊の群れの背が見えていたのでした。 羊、その中にも小羊はおとなしいけものですが、雄羊はいじめもしないのにむやみに人にかかるいたずらをするやつで、うっかりは・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・さて、このすえ付け作業がすむと今度は、両手を希薄な泥汁に浸したのちに、その手で回転する団塊の胴を両方から押えながら下から上へとだんだんなで上げると、今まではただの不規則な土塊であったものが、「回転的対称」という一つの統整原理の生命を吹き込ま・・・ 寺田寅彦 「空想日録」
・・・そこに堆積した土塊のようなものはよく見るとみな石炭であった。ため池の岸には子供が二三人釣りをたれていた。熔炉の屋根には一羽のからすが首を傾けて何かしら考えていた。 絵として見る時には美しくおもしろいこの廃墟の影に、多数の人の家の悲惨な運・・・ 寺田寅彦 「写生紀行」
・・・それには私の過去の道筋で拾い集めて来たあらゆる宝石や土塊や草花や昆虫や、たとえそれが蚯蚓や蛆虫であろうとも一切のものを「現在の鍋」に打ち込んで煮詰めてみようと思っている。それには古人が残してくれた色々な香料や試薬も注いでみようと思っている。・・・ 寺田寅彦 「厄年と etc.」
・・・ 黒くて柔らかい土塊を破って青い小麦の芽は三寸あまりも伸びていた。一団、一団となって青い房のように、麦の芽は、野づらをわたる寒風のなかに、溌溂と春さきの気品を見せていた。「こらァ、豪気だぞい」 善ニョムさんは、充分に肥料のきいた・・・ 徳永直 「麦の芽」
・・・蝮蛇は之を路傍に見出した時土塊でも木片でも人が之を投げつければ即時にくるくると捲いて決して其所を動かない。そうして扁平な頭をぶるぶると擡げるのみで追うて人を噛むことはない。太十も甞て人を打擲したことがなかった。彼はすぐ怒るだけに又すぐに解け・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・しかし翻って考えて見ると、子の死を悲む余も遠からず同じ運命に服従せねばならぬ、悲むものも悲まれるものも同じ青山の土塊と化して、ただ松風虫鳴のあるあり、いずれを先、いずれを後とも、分け難いのが人生の常である。永久なる時の上から考えて見れば、何・・・ 西田幾多郎 「我が子の死」
・・・凡そ感情の暖かい潮流が其方の心に漲って、其方が大世界の不思議をふと我物と悟った時、其方の土塊から出来ている体が顫えた時には、わしの秘密の威力が其方の心の底に触れたのじゃ。主人。もう好い好い。解った。まだ胸は支えているが、兎に角お前を歓迎・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
出典:青空文庫