・・・ 否な、私は初めより其を望まないのである、私は長寿必しも幸福ではなく、幸福は唯だ自己の満足を以て生死するに在りと信じて居た、若し、又人生に社会的価値とも名づくべきもの之れ有りとせば、其は長寿に在るのではなくて、其人格と事業とが四囲及び後・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・長兄の書棚には、ワイルド全集、イプセン全集、それから日本の戯曲家の著書が、いっぱい、つまって在りました。長兄自身も、戯曲を書いて、ときどき弟妹たちを一室に呼び集め、読んで聞かせてくれることがあって、そんな時の長兄の顔は、しんから嬉しそうに見・・・ 太宰治 「兄たち」
・・・三つ、四つと紹介をしているうちに、読者にも、黄村先生の人格の全貌 黄村先生が、山椒魚なんて変なものに凝りはじめた事に就いては、私にも多少の責在りとせざるを得ない。早春の或る日、黄村先生はれいのハンチング(ばかに派手な格子縞そのハンチング・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・いい短篇小説が、たくさん在ります。目次を見ましょう。「玉を懐いて罪あり」HOFFMANN「悪因縁」 KLEIST「地震」 KLEIST それにつづいて、四十篇くらい、みんな面白そうな題の短篇小説ばかり、ずら・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・私の村には、まだ私の小さい家が残って在ります。年老いた父も母も居ります。ずいぶん広い桃畠もあります。春、いまごろは、桃の花が咲いて見事であります。一生、安楽にお暮しできます。私がいつでもお傍について、御奉公申し上げたく思います。よい奥さまを・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・頭は丸刈りにして、鬚も無いが、でも狭い額には深い皺が三本も、くっきり刻まれて在り、鼻翼の両側にも、皺が重くたるんで、黒い陰影を作っている。どうかすると、猿のように見える。もう少年でないのかも知れない。私の足もとに、どっかり腰をおろして、私の・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・栗本鋤雲が、門巷蕭条夜色悲 〔門巷は蕭条として夜色悲しく声在月前枝 の声は月前の枝に在り誰憐孤帳寒檠下 誰か憐まん孤帳の寒檠の下に白髪遺臣読楚辞 白髪の遺臣の楚辞を読めるを〕といった絶句の如きは今なお牢記し・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・店 水を隔てて唯だ開く川口の店背レ空鎖葛西家 を背にして空しく鎖す葛西の家紅裙翠黛人終老 紅裙翠黛 人は終に老い冷※ 路は自ずからし憔悴一般楊柳在 憔悴一般の 楊柳在りて風前猶剰旧夭斜 風前に猶・・・ 永井荷風 「向嶋」
・・・当然のことにして、又その家の貧富貴賤、その人の才不才徳不徳、その身の強弱、その容貌の醜美に至るまで、篤と吟味するは都て結婚の約束前に在り。裏に表に手を尽して吟味に吟味を重ね、双方共に是れならばと決断していよ/\結婚したる上は、家の貧乏などを・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・故に上士の常に心を関するところは、尊卑階級のことに在り。この一事においては、往々事情に適せずして有害無益なるものあり。誓えば藩政の改革とて、藩士一般に倹約を命ずることあり。この時、衣服の制限を立るに、何の身分は綿服、何は紬まで、何は羽二重を・・・ 福沢諭吉 「旧藩情」
出典:青空文庫