・・・「坊ちゃん、ありがとうございます。弟は、どんなに喜ぶかしれません。」と、ねえやは、目をうるませて、いいました。 すると、ある日のこと、弟の孝二くんから、たいそうよろこんで、手紙がまいりました。そして、山で拾った、くりや、どんぐりを送・・・ 小川未明 「おかめどんぐり」
・・・「――世間の教師らはヴァイオリンの教授を坊ちゃん嬢ちゃん相手の機嫌取り同然に思っているが、俺の弟子はきびしい教え方のおかげで、皆んな良い成績を取ったではないか」 これで永年の自分の主義も少しは報いられたというものだ、これからはもう自・・・ 織田作之助 「道なき道」
・・・今度の奥さんには子供衆もあるが、都会育ちの色の白い子供などと違って、「坊ちゃん」と言っても強壮そうに日に焼けている。 東京の明るい家屋を見慣れた高瀬の眼には、屋根の下も暗い。先生のような清潔好きな人が、よくこのむさくるしい炉辺に坐って平・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・ そのころのこと、戸籍調べの四十に近い、痩せて小柄のお巡りが玄関で、帳簿の私の名前と、それから無精髯のばし放題の私の顔とを、つくづく見比べ、おや、あなたは……のお坊ちゃんじゃございませんか? そう言うお巡りのことばには、強い故郷の訛があ・・・ 太宰治 「黄金風景」
・・・そうして、あんな気取り屋の坊ちゃんを、これまで一途に愛して来た私自身の愚かさをも、容易に笑うことが出来ました。やがてあの人は宮に集る大群の民を前にして、これまで述べた言葉のうちで一ばんひどい、無礼傲慢の暴言を、滅茶苦茶に、わめき散らしてしま・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・誰だって、いつまでも上品な坊ちゃんではおられない。頭髪は、以前より少し濃くなったくらいであった。瀬川先生もこれで全く御安心なさるだろう、と私は思った。「おめでとう。」と私が笑いながら言ったら、「やあ、このたびは御苦労。」と北京の新郎・・・ 太宰治 「佳日」
・・・自分はどうかこうか世間並の坊ちゃんで成人し、黒田のような苦労の味をなめた事もない。黒田の昔話を小説のような気で聞いていた。月々郷里から学資を貰って金の心配もなし、この上気楽な境遇はなかった筈であるが、若い心には気楽無事だけでは物足りなかった・・・ 寺田寅彦 「イタリア人」
・・・たとえば三毛が昔かたぎの若い母親で、玉が田舎出の書生だとすれば、ちびには都会の山の手の坊ちゃんのようなところがあった。どこか才はじけたような、しかしそれがためのいやみのない愛くるしさがあった。 小さな背を立てて、長いしっぽをへの字に曲げ・・・ 寺田寅彦 「子猫」
・・・「坊ちゃん」のモデルの多いのは当然としても、自ら「赤シャツ」と称するのが出て来たりするから面白い。元来作者は自分自身の中に居る「坊ちゃん」「赤シャツ」「のだ」「狸」「山あらし」を気任せに取出して紙面の舞台で踊らせ歌わせる。見物人の読者はそれ・・・ 寺田寅彦 「スパーク」
・・・然し真近く進んで、書生の田崎が、例の漢語交りで、「坊ちゃん此の通りです。天網恢々疎にして漏らさず。」と差付ける狐を見ると、鳶口で打割られた頭蓋と、喰いしばった牙の間から、どろどろした生血の雪に滴る有様。私は覚えず柔い母親の小袖のかげにその顔・・・ 永井荷風 「狐」
出典:青空文庫