・・・けれども甚太夫は塀に身を寄せて、執念く兵衛を待ち続けた。実際敵を持つ兵衛の身としては、夜更けに人知れず仏参をすます事がないとも限らなかった。 とうとう初夜の鐘が鳴った。それから二更の鐘が鳴った。二人は露に濡れながら、まだ寺のほとりを去ら・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・私はこれを聞いた時には、陽気なるべき献酬の間でさえ、もの思わしげな三浦の姿が執念く眼の前へちらついて、義理にも賑やかな笑い声は立てられなくなってしまいました。が、幸いとドクトルは、早くも私のふさいでいるのに気がついたものと見えて、巧に相手を・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・「どうも鬼というものの執念の深いのには困ったものだ。」「やっと命を助けて頂いた御主人の大恩さえ忘れるとは怪しからぬ奴等でございます。」 犬も桃太郎の渋面を見ると、口惜しそうにいつも唸ったものである。 その間も寂しい鬼が島の磯・・・ 芥川竜之介 「桃太郎」
・・・お前達が少し執念く泣いたりいがんだりする声を聞くと、私は何か残虐な事をしないではいられなかった。原稿紙にでも向っていた時に、お前たちの母上が、小さな家事上の相談を持って来たり、お前たちが泣き騒いだりしたりすると、私は思わず机をたたいて立上っ・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・親身といってほかにはないから、そこでおいらが引き取って、これだけの女にしたのも、三代祟る執念で、親のかわりに、なあ、お香、きさまに思い知らせたさ。幸い八田という意中人が、おまえの胸にできたから、おれも望みが遂げられるんだ。さ、こういう因縁が・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・一体が何事にも執念く、些細な日常瑣事にすら余りクドクド言い過ぎる難があるが、不思議に失明については思切が宜かった。『回外剰筆』の視力を失った過程を述ぶるにあたっても、多少の感慨を洩らしつつも女々しい繰言を繰り返さないで、かえって意気のますま・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・いろいろ窮状を談して執念く頼んでみたが、旅の者ではあり、なおさら身元の引受人がなくてはときっぱり断られて、手代や小僧がジロジロ訝しそうに見送る冷たい衆目の中を、私は赤い顔をして出た。もう一軒頼んでみたが、やっぱり同じことであった。いったいこ・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・との一念が執念くも細川の心に盤居まっていて彼はどうしてもこれを否むことが出来ない、然し梅子が平常何人に向ても平等に優しく何人に向ても特種の情態を示したことのないだけ、細川は十分この一念を信ずることが出来ぬ。梅子が泣いて見あげた眼の訴うるが如・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・そして、雪の中を執念くかきさがしていた。 その群は、昨日も集っていた。 そして、今日もいる。 三日たった。しかし、烏は、数と、騒々しさと、陰欝さとを増して来るばかりだった。 或る日、村の警衛に出ていた兵士は、露西亜の百姓が、・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・ と彼等が行くさきへ執念くつきまとって流れて来た。「くたびれた。」「休戦を申込む方法はないか。」「そんなことをしてみろ、そのすきに皆殺しになるばかりだ!」「逃げろ! 逃げろ!」 フョードル・リープスキーという爺さんは、二・・・ 黒島伝治 「橇」
出典:青空文庫