・・・ 仁右衛門は死体を背負ったまま、小さな墓標や石塔の立列った間の空地に穴を掘りだした。鍬の土に喰い込む音だけが景色に少しも調和しない鈍い音を立てた。妻はしゃがんだままで時々頬に来る蚊をたたき殺しながら泣いていた。三尺ほどの穴を掘り終ると仁・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
もう昔となった。その頃、雑司ヶ谷の墓地を散歩した時分に、歩みを行路病者の墓の前にとゞめて、瞑想したのである。名も知れない人の小さな墓標が、夏草の繁った一隅に、朽ちかゝった頭を見せていた。あたりは、終日、しめっぽく、虫が細々とした声で鳴・・・ 小川未明 「ラスキンの言葉」
・・・と書きし墓標またここに建てられぬ。幸助を中にして三つの墓並び、冬の夜は霙降ることもあれど、都なる年若き教師は源叔父今もなお一人淋しく磯辺に暮し妻子の事思いて泣きつつありとひとえに哀れがりぬ。 紀州は同じく紀州なり、町のものよりは佐伯附属・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・それはどうにもならないほどしっくり似合った墓標である、と思ったからであった。 太宰治 「猿面冠者」
ヨワン榎は伴天連ヨワン・バッティスタ・シロオテの墓標である。切支丹屋敷の裏門をくぐってすぐ右手にそれがあった。いまから二百年ほどむかしに、シロオテはこの切支丹屋敷の牢のなかで死んだ。彼のしかばねは、屋敷の庭の片隅にうずめら・・・ 太宰治 「地球図」
私は戦場から帰って、まもなくO君を田舎の町の寺に訪ねた。その時、墓場を通りぬけようとして、ふと見ると、新しい墓標に、『小林秀三之墓』という字の書いてあるのが眼についた。新仏らしく、花などがいっぱいにそこに供えてあった。・・・ 田山花袋 「『田舎教師』について」
・・・真逆に墓表とは見えずまた墓地でもないのを見るとなんでもこれは其処で情夫に殺された女か何かの供養に立てたのではあるまいかなど凄涼な感に打たれて其処を去り、館の裏手へ廻ると坂の上に三十くらいの女と十歳くらいの女の子とが枯枝を拾うていたからこれに・・・ 寺田寅彦 「根岸庵を訪う記」
・・・赤い砂岩の小さな墓標には "For now we see in a glass darkly, but then face to face." と刻してある。その後ウェストミンスター・アベーに記念の標石を納めようという提議が大学総長や王立協・・・ 寺田寅彦 「レーリー卿(Lord Rayleigh)」
・・・ニロは千八百六十年二月一日に死にました。墓標も当時は存しておりましたが惜しいかなその後取払われました」と中々精しい。 カーライルが麦藁帽を阿弥陀に被って寝巻姿のまま啣え煙管で逍遥したのはこの庭園である。夏の最中には蔭深き敷石の上にささや・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・そうして天から落ちて来る星の破片を墓標に置いて下さい。そうして墓の傍に待っていて下さい。また逢いに来ますから」 自分は、いつ逢いに来るかねと聞いた。「日が出るでしょう。それから日が沈むでしょう。それからまた出るでしょう、そうしてまた・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
出典:青空文庫