・・・ですからあの秋山図も、今は誰の家に蔵されているか、いや、未に亀玉の毀れもないか、それさえ我々にはわかりません。煙客翁は手にとるように、秋山図の霊妙を話してから、残念そうにこう言ったものです。「あの黄一峯は公孫大嬢の剣器のようなものでした・・・ 芥川竜之介 「秋山図」
・・・高い腰の上は透明なガラス張りになっている雨戸から空をすかして見ると、ちょっと指先に触れただけでガラス板が音をたてて壊れ落ちそうに冴え切っていた。 将来の仕事も生活もどうなってゆくかわからないような彼は、この冴えに冴えた秋の夜の底にひたり・・・ 有島武郎 「親子」
・・・そしてそれらの棚の上にうんざりと積んであった牛乳瓶は、思ったよりもけたたましい音を立てて、壊れたり砕けたりしながら山盛りになって地面に散らばった。 その物音には彼もさすがにぎょっとしたくらいだった。子供はと見ると、もう車から七、八間のと・・・ 有島武郎 「卑怯者」
・・・ええ、あんな裏土塀の壊れ木戸に、かしほんの貼札だ。……そんなものがあるものかよ。いまも現に、小母さんが、おや、新坊、何をしている、としばらく熟と視ていたが、そんなはり紙は気も影もなかったよ。――何だとえ?……昼間来て見ると何にもない。……日・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・ 履物が無かったばかり、髪も壊れず七兵衛が船に助けられて、夜があけると、その扱帯もその帯留も、お納戸の袷も、萌黄と緋の板締の帯も、荒縄に色を乱して、一つも残らず、七兵衛が台所にずらりと懸って未だ雫も留まらないで、引窓から朝霧の立ち籠む中・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・窓ががらがらと鳴って壊れたが、その音は女の耳には聞えなかった。どこか屋根の上に隠れて止まっていた一群の鳩が、驚いて飛び立って、たださえ暗い中庭を、一刹那の間一層暗くした。 聾になったように平気で、女はそれから一時間程の間、やはり二本の指・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・幸いに根のかみついていた岩角が砕けなかったから、よかったものの、もし壊れたら、おそらくそれが最後だったでありましょう。 しかし、いまは、そのときの傷痕も古びてしまって、幹には、雅致が加わり、細かにしげった緑色の葉は、ますます金色を帯び、・・・ 小川未明 「しんぱくの話」
・・・また建物といっては、いずれも古びていて、壊れたところも修繕するではなく、烟ひとつ上がっているのが見えません。それは工場などがひとつもないからでありました。 町はだらだらとして、平地の上に横たわっているばかりであります。しかるに、どうして・・・ 小川未明 「眠い町」
・・・私の古い空想はその場で壊れてしまった。猫は耳を噛まれるのが一番痛いのである。悲鳴は最も微かなところからはじまる。だんだん強くするほど、だんだん強く鳴く。Crescendo のうまく出る――なんだか木管楽器のような気がする。 私のながらく・・・ 梶井基次郎 「愛撫」
・・・「自分の生活が壊れてしまえばほんとうの冷静は来ると思う。水底の岩に落ちつく木の葉かな。……」「丈草だね。……そうか、しばらく来なかったな」「そんなこと。……しかしこんな考えは孤独にするな」「俺は君がそのうちに転地でもするよう・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
出典:青空文庫