・・・もしそれだけでも確かだとすれば、人間らしい感情の全部は一層大切にしなければならぬ。自然は唯冷然と我我の苦痛を眺めている。我我は互に憐まなければならぬ。況や殺戮を喜ぶなどは、――尤も相手を絞め殺すことは議論に勝つよりも手軽である。 我我は・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
「僕の帽子はおとうさんが東京から買って来て下さったのです。ねだんは二円八十銭で、かっこうもいいし、らしゃも上等です。おとうさんが大切にしなければいけないと仰有いました。僕もその帽子が好きだから大切にしています。夜は寝る時にも・・・ 有島武郎 「僕の帽子のお話」
・・・この大切な品がどんな手落で、遺失粗相などがあるまいものでもないという迷信を生じた。先ず先生から受取った原稿は、これを大事と肌につけて例のポストにやって行く。我が手は原稿と共にポストの投入口に奥深く挿入せられてしばらくは原稿を離れ得ない。やが・・・ 泉鏡花 「おばけずきのいわれ少々と処女作」
・・・ 手拭を頭に巻きつけ筒袖姿の、顔はしわだらけに手もやせ細ってる姉は、無い力を出して、ざくりざくり桑を大切りに切ってる。薄暗い心持ちがないではない。お光さんは予には従姉に当たる人の娘である。 翌日は姉夫婦と予らと五人つれ立って父の墓参・・・ 伊藤左千夫 「紅黄録」
・・・僕は大切な時間を取られるのが惜しかったので、いい加減に教えてすましてしまうと、「うちの芸者も先生に教えていただきたいと言います」と言い出した。「面倒くさいから、厭だよ」と僕は答えたが、跡から思うと、その時からすでにその芸者は僕を・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・その頃訴訟のため度々上府した幸手の大百姓があって、或年財布を忘れて帰国したのを喜兵衛は大切に保管して、翌年再び上府した時、財布の縞柄から金の員数まで一々細かに尋ねた後に返した。これが縁となって、正直と才気と綿密を見込まれて一層親しくしたが、・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・もし青年が青年の心のままを書いてくれたならば、私はこれを大切にして年の終りになったら立派に表装して、私の Libraryのなかのもっとも価値あるものとして遺しておきましょうと申しました。それからその雑誌はだいぶ改良されたようであります。それ・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・従って、語る人と聴く者との心の接触から生ずる同化が大切であるのであります。 真実というものが、いかに相手を真面目にさせるか、熱情というものが、いかに相手の心を打つか、こうした時に分るものです、それであるから、語る人の態度は、自から聴く人・・・ 小川未明 「童話を書く時の心」
・・・そのとき預ったのが利子もはいってまへんので、もう流れてまんねんけど、何やこうお君はんの家では大切な品もんや思いまんので、相談によっては何せんこともおまへん、と、こない思いましてな。いずれ電車会社の……」 慰謝金を少くも千円と見こんで、こ・・・ 織田作之助 「雨」
・・・とにかくなにか非常に大切なものを落としたのだろう。私は燐寸を手に持ちました。そしてその人影の方へ歩きはじめました。その人影に私の口笛は何の効果もなかったのです。相変わらず、進んだり、退いたり、立ち留ったり、の動作を続けているのです。近寄って・・・ 梶井基次郎 「Kの昇天」
出典:青空文庫