・・・それでも美代が病人のさしずを聞いてそれに自分の意見を交ぜて一日忙しそうに働いていた。大晦日の夜の十二時過ぎ、障子のあんまりひどく破れているのに気がついて、外套の頭巾をひっかぶり、皿一枚をさげて森川町へ五厘の糊を買いに行ったりした。美代はこの・・・ 寺田寅彦 「どんぐり」
・・・ 武雄の温泉宿で泊ったのがちょうど大晦日の晩であった。明日はここから汽車にのって一と息に熊本へ帰るというので、一同元気づいてだいぶ賑やかに騒いだりした。浴場へ行って清澄な温泉に全身を浸し、連日の疲れを休めていると、どやどやと一度に五、六・・・ 寺田寅彦 「二つの正月」
・・・要するに生活上の利害から割り出した嘘だから、大晦日に女郎のこぼす涙と同じくらいな実は含んでおります。なぜと云って御覧なさい。もし時間があると思わなければ、また時間を計る数と云うものがなければ、土曜に演説を受け合って日曜に来るかも知れない。御・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・「もうじき大晦日だのにね。――どうするおつもり?」 彼女は、歎息まじりに訴えた。「今其那に女中なんかないのよ。貴方男だから好きになすったって如何かなるには違いないけれど。――私困るわ。――返事位少し沢山したってれんを置いて下され・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・は去年の大晦日の或る女の感情を描いたもので、二十何枚か二晩にかいてしまった。そのような熱と、又そのような欠点をもっていたものです。それを書きあげて、『新潮』へ送ってほとんど間もなく、すっかり仕事が中断されたわけです。府中へは私もひどい風をひ・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・ 三十一日には、近年にない大雨で、私は、こんな大晦日ってあるものかと思い目をさましました。あなたも雨ふりの東京の大晦日は何かふさわしくなくお感じになったでしょう。雪ならわかるけど、ね。 夕方四時頃からいねちゃんのとこへ出かけようとし・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・黒字どころか、おしつまる年の瀬とともに、金のあるふところ、金のないふところの差別はまざまざとして、大晦日の新聞は、何と報道していたでしょう。キャバレーの床にシャンペンが流れ、高価な贅沢品はとぶように売れているのに、生活必需品の売れあしは、き・・・ 宮本百合子 「今年こそは」
・・・除夜の鐘も鳴らない大晦日の晩が、ひっそりと正月に辷り込んだ。 三ガ日の繁忙をさけて来ている浴客だが、島田に結った女中が朱塗りの屠蘇の道具を運んで部屋毎に、「おめでとうございます。どうぞ本年もよろしく」と障子をあけた。正月が来・・・ 宮本百合子 「山峡新春」
・・・二年ばかり前、モスクワで初めての大晦日と正月を迎えた時、どんなにやるのかと思って楽しみにした。ところが勿論日本みたいに除夜の鐘が鳴るわけじゃなし、門松立てるわけじゃなし、元旦に下宿の神さんが「おめでとう」と一言云ったぎりで普通のパンと茶を食・・・ 宮本百合子 「正月とソヴェト勤労婦人」
・・・非常におだやかに来る人もなく、ぼんやりと大晦日が更けて行くのでいつもよりのびやかに次の年を迎える気持が嬉しい。 非常に天気が良い。 田畑の面のはてしない広い処に太陽がゆったりと差して、黄金色の細かい細かい粉末が宙に・・・ 宮本百合子 「農村」
出典:青空文庫