・・・ × 関東地方一帯に珍らしい大雪が降った。その日に、二・二六事件というものが起った。私は、ムッとした。どうしようと言うんだ。何をしようと言うんだ。 実に不愉快であった。馬鹿野郎だと思った。激怒に似た気持であった。・・・ 太宰治 「苦悩の年鑑」
・・・ ことしの東京の雪は、四十年振りの大雪なのだそうですね。私が東京へ来てから、もうかれこれ十五年くらいになりますが、こんな大雪に遭った記憶はありません。 雪が溶けると同時に、花が咲きはじめるなんて、まるで、北国の春と同じですね。いなが・・・ 太宰治 「春」
・・・十二月のはじめ、三島に珍らしい大雪が降った。日の暮れかたからちらちらしはじめ間もなくおおきい牡丹雪にかわり三寸くらい積ったころ、宿場の六個の半鐘が一時に鳴った。火事である。次郎兵衛はゆったりゆったり家を出た。陣州屋の隣りの畳屋が気の毒にも燃・・・ 太宰治 「ロマネスク」
・・・ 一同、成程と思案に暮れたが、此の裏穴を捜出す事は、大雪の今、差当り、非常に困難なばかりか寧ろ出来ない相談である。一同は遂にがたがた寒さに顫出す程、長評定を凝した結果、止むを得ないから、見付出した一方口を硫黄でえぶし、田崎は家にある鉄砲・・・ 永井荷風 「狐」
・・・ 忘れもしない、その夜の大雪は、既にその日の夕方、両国の桟橋で一銭蒸汽を待っていた時、ぷいと横面を吹く川風に、灰のような細い霰がまじっていたくらいで、順番に楽屋入をする芸人たちの帽子や外套には、宵の口から白いものがついていた。九時半に打・・・ 永井荷風 「雪の日」
・・・ 千代は、越後の大雪の夜、帰らない飲んだくれの父を捜して彼方此方彷徨った有様を憐れっぽく話した。 さほ子にとって、其等の話は本当らしくも、嘘らしくもあった。彼女の話す声は全くそれ等の話に似つかわしいものであったが、容子はちっとも砕け・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・魚住もある時期この錯雑した事情にまけて、受動的な頬杖をついたような気分で暮すが、日頃目をかけていた黒須千太郎をこめる集団脱走事件がおこり、折からの大雪で凍死するにきまっている千太郎を救おうという情熱によって振い立ち、情熱をもって一事を敢行し・・・ 宮本百合子 「作品のテーマと人生のテーマ」
・・・今から五年前のことで、東京が稀有な大雪に覆われた年の出来ごとである。父がその病床についてから会えない娘の私にあてて書いたのは、一つの英語の詩であった。そこには、娘が年を重ね生活の経験を深めるにつれて、いよいよ思いやりをふかめずにいられなくな・・・ 宮本百合子 「父の手紙」
・・・このおどろきの感情が脈々と私を歓喜に似た感情へ動かしたのであるが、今年の二月・三月は春になってからの大雪で、私が生活していた場所の薄暗く曲った渡り廊下の外の庇合には、東京に珍しく堆たかい雪だまりが出来たりしていた、その光景は変化のない日常の・・・ 宮本百合子 「わが父」
・・・所が、もう年が押し詰まって十二月二十八日となって、きのうの大雪の跡の道を、江戸城へ往反する、歳暮拝賀の大小名諸役人織るが如き最中に、宮重の隠居所にいる婆あさんが、今お城から下がったばかりの、邸の主人松平左七郎に広間へ呼び出されて、将軍徳川家・・・ 森鴎外 「じいさんばあさん」
出典:青空文庫