・・・十九世紀の、巴里の文人たちの間に、愚鈍の作家を「天候居士」と呼んで唾棄する習慣が在ったという。その気の毒な、愚かな作家は、私同様に、サロンに於て気のきいた会話が何一つ出来ず、ただ、ひたすらに、昨今の天候に就いてのみ語っている、という意味なの・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・ テツさんと妻は天候について二言三言話し合った。その対話がすんで了うと、みんなは愈々手持ぶさたになった。テツさんは、窓縁につつましく並べて置いた丸い十本の指を矢鱈にかがめたり伸ばしたりしながら、ひとつ処をじっと見つめているのであった。私・・・ 太宰治 「列車」
・・・空梅雨に代表的な天気で、今にも降り出しそうな空が不得要領に晴れ、太陽が照りつけるというよりはむしろ空気自身が白っぽく光り輝いているような天候であった。 震災前と比べて王子赤羽界隈の変り方のはげしいのに驚いた。近頃の東京近郊の面目を一新さ・・・ 寺田寅彦 「ゴルフ随行記」
・・・その声を聞いてその次の月の天候を予測するようなことも、全く不可能ではないかもしれない。 同じように米相場や株式の高下の曲線を音に翻訳することもできなくはないはずである。 たとえば浅間温泉からながめた、日本アルプス連峰の横顔を「歌わせ・・・ 寺田寅彦 「試験管」
・・・この偏光の度や配置を種々の天候の時に観測して見ると、それが空気の溷濁を起すようないわゆる塵埃の多少によって系統的に変化する事が分る。 この偏光の研究を更につきつめて行って、この頃では塵のない純粋なガスによって散らされる光を精細に検査し、・・・ 寺田寅彦 「塵埃と光」
・・・これらの場合に充分な気象観測の材料が備わっていて優秀な気象学者がこれに拠って天候を的確に予報する事が出来れば如何に有利であるかは明らかである。 また一例を挙げると、三月十六日パレスタインで強風が砂塵を立てているに乗じてトルコの駱駝隊を襲・・・ 寺田寅彦 「戦争と気象学」
・・・今日の天候によく似ている。しかし昨朝八丈島沖に相当な深層地震があったのでそれで帳消しになったのかもしれない。あの日は津田君の「出雲崎の女」が問題になっていて、喫茶室で同君からそのゆきさつの物語を聞いているうちに震り出したのであった。その津田・・・ 寺田寅彦 「二科展院展急行瞥見記」
・・・ 津々浦々に海の幸をすなどる漁民や港から港を追う水夫船頭らもまた季節ことに日々の天候に対して敏感な観察者であり予報者でもある。彼らの中の古老は気象学者のまだ知らない空の色、風の息、雲のたたずまい、波のうねりの機微なる兆候に対して尖鋭な直・・・ 寺田寅彦 「日本人の自然観」
・・・こういう天候で、もし降雨を伴なわないと全国的に火事や山火事の頻度が多くなるのであるが、この日は幸いに雨気雪気が勝っていたために本州四国九州いずれも無事であった。ところが午後六時にはこの低気圧はさらに深度を強めて北上し、ちょうど札幌の真西あた・・・ 寺田寅彦 「函館の大火について」
・・・ 今年の天候異常で七月中晴天が少なかったために、何か特殊な、蜜蜂の採蜜資料になるべき花のできが悪かったか、あるいは開花がおくれたといったような理由があるのではないかとも想像される。 近ごろ見た書物に、蜜蜂が花野の中で、つぼみと、咲い・・・ 寺田寅彦 「破片」
出典:青空文庫