・・・うららかな上天気で、しかも日曜である。少々ばつは悪かったようなものの昨夜の心配は紅炉上の雪と消えて、余が前途には柳、桜の春が簇がるばかり嬉しい。神楽坂まで来て床屋へ這入る。未来の細君の歓心を得んがためだと云われても構わない。実際余は何事によ・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・或る麗らかな天気の日に、秋の高い青空を眺めながら、遠い昔の夢を思い出した。その夢の記憶の中で、彼は支那人と賭博をしていた。支那人はみんな兵隊だった。どれも辮髪を背中にたれ、赤い珊瑚玉のついた帽子を被り、長い煙管を口にくわえて、悲しそうな顔を・・・ 萩原朔太郎 「日清戦争異聞(原田重吉の夢)」
・・・「なんと云う天気だい。たまらないなあ。」 爺いさんは黙って少し離れた所に腰を掛けた。 一本腕が語り続けた。「糞。冬になりゃあ、こんな天気になるのは知れているのだ。出掛けさえしなけりゃあいいのだ。おれの靴は水が染みて海綿のようになって・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・附添の一人が穏坊に向て「穏坊屋さん、何だか凄い天気になって来たが雨は降りゃアしないだろうか」と問うと、穏坊はスパスパと吹かしていた煙管を自分の腰かけている石で叩きながら「そうさねー、雨になるかも知れない」と平気な声で答えている。「今降り出さ・・・ 正岡子規 「死後」
・・・風は寒いけれどもいい天気だ。僕は少しも船に酔わない。ほかにも誰も酔ったものはない。 *いるかの群が船の横を通っている。いちばんはじめに見附けたのは僕だ。ちょっと向うを見たら何か黒いものが波から抜け出て小さな弧を描い・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・ 雨がつづいて居る時分からああなり出したので、天気がなおるとよくなるまいものでもないと放って置いたけれ共、一向によくならない。 今日はどうしても高井にたのまなければならないからと思って電話をかける。 声の太い頭の鈍そうな男が出て・・・ 宮本百合子 「一日」
・・・Monet なんぞは同じ池に同じ水草の生えている処を何遍も書いていて、時候が違い、天気が違い、一日のうちでも朝夕の日当りの違うのを、人に味わせるから、一枚見るよりは較べて見る方が面白い。それは巧妙な芸術家の事である。同じモデルの写生を下手に・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
・・・その日は日曜日の午前で天気が好かった。ユリアはやはり昔の色の蒼い、娘らしい顔附をしている。ただ少し年を取っただけである。ツァウォツキイが来た時、ユリアは平屋の窓の傍で縫物をしていた。窓の枠の上には赤い草花が二鉢置いてある。背後には小さい帷が・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・「きょうは天気がよいで気持好かろが、ここにいたらお前、ええ隠居さんやがな。」 彼女は貸した安次の着ている蒲団を一寸見た。そして彼が死んでからまだ役に立つかどうかと考えたが、彼女の気持が良ければ良いだけ、安次を世話した自分の徳が、死ん・・・ 横光利一 「南北」
・・・ 初めて早稲田南町の漱石山房を訪れたのは、大正二年の十一月ごろ、天気のよい木曜日の午後であったと思う。牛込柳町の電車停留場から、矢来下の方へ通じる広い通りを三、四町行くと、左側に、自動車がはいれるかどうかと思われるくらいの狭い横町があっ・・・ 和辻哲郎 「漱石の人物」
出典:青空文庫