・・・が、大竹の柔術は確か天真揚心流だった。僕は中学の仕合いへ出た時、相手の稽古着へ手をかけるが早いか、たちまちみごとな巴投げを食い、向こう側に控えた生徒たちの前へ坐っていたことを覚えている。当時の僕の柔道友だちは西川英次郎一人だった。西川は今は・・・ 芥川竜之介 「追憶」
・・・父親は云う事を聴かないと、家を追出して古井戸の柳へ縛りつけるぞと怒鳴って、爛たる児童の天真を損う事をば顧みなかった。ああ、恐しい幼少の記念。十歳を越えて猶、夜中一人で、厠に行く事の出来なかったのは、その時代に育てられた人の児の、敢て私ばかり・・・ 永井荷風 「狐」
・・・レ茵 草は嫩く茵に充るに堪う葭短不レ碍レ舸 葭は短く舸も碍げず撥二百冗一以遊 百冗を撥りて以て遊ぶ 中略 中略清和属二首夏一 清和は首夏に属す境勝固天真 境の勝ることは固より天真に・・・ 永井荷風 「向嶋」
・・・ そもそも洋学のもって洋学たるところや、天然に胚胎し、物理を格致し、人道を訓誨し、身世を営求するの業にして、真実無妄、細大備具せざるは無く、人として学ばざるべからざるの要務なれば、これを天真の学というて可ならんか。吾が党、この学に従事す・・・ 福沢諭吉 「慶応義塾の記」
・・・のようでありながら、そういう観念の発生の歴史をさかのぼって見れば、現代でいう家庭の形が父権とともに形成せられはじめたそもそもから、女ののびのびとした自然性の発露はある絆をうけて、決して万葉時代のような天真なものであり得なくなっているというこ・・・ 宮本百合子 「新しい船出」
・・・そのことを、ひとも我も、しんから自覚し、たたかいにおいてさえも婦人の天真な美しさとつよさとを発揮してゆきたいと思う。〔一九四六年十一月〕 宮本百合子 「「女らしさ」とは」
・・・真個の女性が無意識に流露させる女らしさが、微妙な隅々で欠けているので、天真の軟らかみが乏しいとも云えよう。女形の女性は、筋の上で与えられた性格の特質だけを強調する点ではうまいかもしれないが、それ等の底に流れ満ちている泉のような何ものかを胸に・・・ 宮本百合子 「気むずかしやの見物」
・・・男女の恋愛も太古はそれに似たあどけなさ、動物に近い天真さで表現されていたのであった。 社会進化の過程で、奴隷という働き手が出来、その労働で富が蓄えられ、耕作・牧畜・その他の固定した土地からの収穫がふえるにつれて、部落の男、父親が、そ・・・ 宮本百合子 「貞操について」
・・・人間の心持の天真なところが面白かった。 四辺が煌々と明るくなるとますます目の下の空っぽの議席が空虚の感じをそそる。遠くの円形棧敷の貴賓席に、ぽつりと一人いる人の黒服と白髪の輪廓も鮮やかにこちらから見える。 開会されたのは三時すぎであ・・・ 宮本百合子 「待呆け議会風景」
・・・自然を父とし、画家の心臓を胎として生まれた天真の美しさである。僕はこれらの画に心を引かれる。しかし『慈悲光礼讃』からは何の感興をも受けない。むしろ池の面に浮かんだ魚の姿を滑稽にさえも思う。 小林古径氏が『いでゆ』によって僕の問題に与える・・・ 和辻哲郎 「院展遠望」
出典:青空文庫