・・・この間に日影の移る一寸一寸、一分一分、一厘一厘が、政元に取っては皆好ましい魔境の現前であったろう歟、業通自在の世界であったろうか、それは傍からは解らぬが、何にせよ長い長い月日を倦まずに行じていた人だ、倦まぬだけのものを得ていなくては続かぬ訳・・・ 幸田露伴 「魔法修行者」
・・・ 私たちがしきりにさがした借家も容易に見当たらなかった。好ましい住居もすくないものだった。三月の節句も近づいたころに、また私は次郎を連れて一軒別の借家を見に行って来た。そこは次郎と三郎とでくわしい見取り図まで取って来た家で、二人ともひど・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・働き者だとか、気性勝りだとか言われて、男と戦おうとばかりするような毅然した女よりも、反って涙脆い、柔軟な感じのする人の方が好ましい。快活であれば猶好い。移り気も一概には退けられない。不義する位のものは、何処かに人の心を引く可懐みもある。ああ・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・ 蓄音機が完成した暁に望み得られることのうちで私が好ましいと思う一つのものは、あらゆる「自然の音」のレコードである。たとえば山里の夜明けに聞こえるような鶏犬の声に和する谷川の音、あるいは浜べの夕やみに響く波の音の絶え間をつなぐ船歌の声、・・・ 寺田寅彦 「蓄音機」
・・・ それに辰之助も長いあいだ、ほとんど地廻りのようにこの巷に足を入れていて、お絹たちとはことに深い馴染なので、芝居見物のことなどで、彼の気を悪くさせるのも、あまり好ましいことではなかった。 道太にすれば、芝居はたいした問題ではなかった・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・都などのような都会は、違った文化が見られて悪るくはないと思いますが、旅として見て、東海道あたりの海が見え、松があるといった美しいだけで、唯長々と眠につづいている整然とした風景よりも、変化のある北の方が好ましいと思います。 旅行では一人旅・・・ 宮本百合子 「愛と平和を理想とする人間生活」
・・・この短い伝記の中に、鴎外にとって好ましい女の或る精神的な魅力の典型の一つを語っているらしいところも面白い。最後に、鴎外は、外見には労苦の連続であった「お佐代さんが奢侈を解せぬ程おろかであったとは誰も信ずることが出来ない。また物質的にも、精神・・・ 宮本百合子 「鴎外・漱石・藤村など」
・・・出征する人たちの悲しみは見られますが、一般に好ましい印象を与えています。」 彼女は落着いた文章のうちに情熱をこめて、小国ながら勇敢なベルギーは容易にドイツ軍の通過を許さないだろうとフランス人はみな希望を持ち、苦戦は覚悟の上だけれどきっと・・・ 宮本百合子 「キュリー夫人」
・・・「人生三十一年、好ましいと思われるものは死ばかりである」と。 この状態が更に三年もつづいたとき、フロレンスの周囲は、ごくありふれた考えからいくらかずつ彼女に自由を許しはじめた。この風変りな未婚の淑女も、そろそろ中年未婚婦人と呼ばれる方に・・・ 宮本百合子 「フロレンス・ナイチンゲールの生涯」
出典:青空文庫