・・・のだから、いやとか好きとか云うならそれまでであるが、根拠のない好悪を発表するのを恥じて、理窟もつかぬところに、いたずらな理窟をつけて、弁解するのは、消化がわるいから僕は蛸が嫌だというような口上で、もし好物であったなら、いかほど不消化でも、だ・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・ 千代が、さしずをされずに拵えるものは、何でもない、彼女自身の大好物な味噌おじや丈だとわかったとき、さほ子は、良人の寝台の上に突伏し声を殺して笑い抜いた。 千代は、美しい眉をひそめながらぴんと小指を反せて鍋を動し、驚くほどのおじやを・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・ 私は島田の父上[自注7]の御好物の海苔をおことづけ願いましたし、べったら漬もあるし、まあ東京からおかえりらしいお土産が揃って結構でした。 お立ちになってから林町へ一緒にまわってお風呂に入って、十二時一寸前家へかえりました。栄さんが・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・特に好物といえばあい鴨です。 野菜では、胡瓜とかサラダとか、見た眼に新鮮な感じのするものを好みます。殊に五月時分、はしりの胡瓜をなまのまま輪切りにして塩をつけてたべるのは、毎年その季節の楽しみの一つです。 嫌いなものといえば、何より・・・ 宮本百合子 「身辺打明けの記」
・・・私は、弱い女が死に者狂いで泣き叫ぶ声や、いとけない子供が死にかかって母親をさがす、そう云う声が好物だ。ヴィンダー 愈事は順調に運ぶ。彼方此方の隅々から赤い焔がふき出したぞ。ほら、壊れた、脆い、木造りの梁に火の粉がとびつく。ぱっと拡がる。・・・ 宮本百合子 「対話」
・・・詩人は母が好物だというのでわざわざとってくれたローズの目の様な美くしいブドーを吸いながら、雪の日に旅立って門を出た時の事から今日門をくぐる時までの所を丁寧に話しました。母親も祖母も不思議な物語の様な話に耳をそば立てました。朗な声の調子は丁度・・・ 宮本百合子 「無題(一)」
出典:青空文庫